ぶどう酒がなくなりました
―主任司祭メッセージ 1/16―



 

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。(ヨハネ 2・1〜3

よく知られている「カナの婚礼」のエピソードは、イエズスさまが水をぶどう酒に変えられた「最初のしるし」で、ご自分がメシア(キリスト)、神さまが送られるはずのお方、人を死から救うお方であることを表わされました。“そのとき”カナで、イエズスさまは命の泉である結婚に神さまの愛の恵みを取り返してくださったことを表わしています。

 わたしたちの信仰によれば、結婚はただ男と女の愛による結びつきではなく、命を司る“呼びかけ”として見ています。人間の心の中に働いている罪のために、この呼びかけに応えるには恵みが必要です。こうして、神さまの前で(教会で)結婚する意味も明らかになります。つまり、教会を通して恵みが与えられているからです。こうして、マリアさまのあのことば「ぶどう酒がなくなりました」は、教会のこころをも表しています。そのときのイエズスさまのお言葉は次のようになります。

「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしのときはまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。(ヨハネ 2・4〜7)

イエズスさまの“とき”、それはイエズスさまの死と復活による救いの業ですね。そこから教会が生まれました。結婚を支える恵みもそこにあります。教会が洗礼から生まれると同じように、結婚から神さまが望まれる家族が生まれるのです。
神さまは愛でおられるので(参照 Jヨハネ4・16)、この世をお造りになったとき、ご自分の愛に“いのちの泉”をおかれました。わたしたち人間は、自分の命を支えるために新しいものを発見したり開発したりしますが、わたしたちは神さまのみ旨以外のところにいのちの泉をおくことはできません。ですから神さまの愛にとどまる人だけがいのちに留まることになります。

神さまは人を“幸せ”のために造られましたが、幸せとは神の愛に留まることですね。信仰はその幸せに人々が呼ばれていることを教えてくれますが、一人ひとりは自分の毎日の中でそれを発見するのです。つまり何を発見するかというと、神さまがわたしたち個人(一人ひとり)を“ユニークなかたちで完全に愛してくださる”こと と“その愛に応えることに幸せがある”ことを発見するのです。そうすれば、日々大きな愛のうちにわたしたちが在ることに目覚め、本当の幸せを知ることになるでしょう。

こうして今回わたしたちは結婚への神さまの呼びかけ(召し出し)を思い出しています。実は、愛への呼びかけは結婚に限られているものではないのですが、結婚は神さまが男と女の愛に命の泉をおかれたもので、共通の召し出しと言われます。
いのちを支える愛への召し出しは他にもあります。その召し出しは聖別された者への呼びかけといい、特別なかたちでいのちに仕えるという呼びかけです。例えば、教会でいうと司祭職への呼びかけ、修道生活への呼びかけですね。また世間で生活し、聖別された形で奉仕の道を歩むように呼びかけられている人もいます。すべての人は皆、それぞれに与えられた愛に応えるように神さまから呼びかけられています。

神さまの愛に応えるために、どのような呼びかけに対してもキリストさまの恵みが必要です。人間の力だけでは、どうしてもぶどう酒が足りなくなります。イエズスさまの恵みのもとに生きるとき、わたしたちは神さまの大きないのちの業を味わうことができるでしょう。

世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ 2・9〜10)




 次回は結婚についての教会の教えをもう少し詳しくご紹介したいと思います。
 ではまた来週!



カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。