朝、教会に通うときにいつも挨拶をするおじいさんのこと。
ある日、「牧師さんですか?」と。
「はい。あそこのカトリック教会の神父ですよ。」とお答えすると、「ああ、牧師さんですね。」と返ってきました。
私はちょっと笑って、「またね!」と別れました。
どうも「神父さん」は難しい言葉のようですね。教会の信徒である皆様にとっては馴染みのある言葉ですが、もしかすると神父様の存在そのものについては詳しくないかもしれないと思って、今日は神父様のことについてお話させていただきたいと思います。
1.正式な名称は「司祭」ですが、司祭は「祭司職の秘跡」(叙階の秘跡)によって、大祭司キリストの立場になって信徒の祭司職を司ります。司祭はキリストの姿を現し、それによってわたしたちはキリストの祭司職に加えていただきます。この祭司職は、神さまにふさわしい礼拝をささげるために、キリストさまがその教会にくださったものです。つまりご自分をおささげになったキリストさまにわたしたちが加えられ、ふさわしい礼拝をささげることができるように司祭の役割があります。この礼拝は信者の新しいいのちを表わすものですが、それを可能にしてくれるのが司祭の奉仕ですね。
2.これでもうお分かりでしょう。司祭は仕事を示すものではなく、生涯をその祭司職を果たすために聖別され、召し出しを受けた人ですね。わたしたち信徒への呼びかけと同じように司祭への呼びかけは、“何かをする”呼びかけではなく、“何者かになる”、つまりどんな心をもってするかという呼びかけです。
例をあげてみましょう。ルカの福音書にある「善いサマリア人」のイエズスさまのたとえを思い出すといいでしょう。この話の中で、ある律法の専門家がイエズスさまに尋ねます。「では、わたしの隣人とは誰ですか」と。そのとき譬えを話してからイエズスさまは逆にその専門家にたずねます。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。
大事なことは何かをすることより、“だれになってするか”ですね。(参照 ルカ 10・25〜37)つまり、イエズスさまになることです。
3.司祭は祈る人です。
一つの教会を司牧する司祭は、その民への奉仕として毎日ミサをささげるとともに、毎日「教会の祈り(聖務日課)」を五回行うことをご存知かな? つまりイエズスさまと同じように祈ることを大切にします。
4.司祭は信徒への奉仕のために教会に住んでいますが、実は司祭が一人住まいで生涯を送ることはその時代の教会の事情によるものです。初代教会の時代から教会の状況が変わるに伴い司祭の生活は今のような状態になりましたが、もともとはそうではありませんでした。むしろ修道生活の中のように「司祭の家族」「兄弟」の中に生きることがふさわしく、今も司教のもとで司祭たちが集まり分かち合う工夫がいろいろされています。
5.司祭はまたイエズス・キリストさまと同じようにキリストの体である教会のために生涯を送り、自分の家族を持たず、また結婚もしません。司祭職の奉仕をふさわしく果たすために、独身生活を送り、愛の奉仕をもって生きます。実は司祭職に呼ばれている人の他に、特別な召し出しとして結婚の道ではなく教会への奉仕のために生涯を送るように呼ばれている信徒の道も幾つかあります。
6.司祭は使徒たちと同じように祈りと宣教司牧のために生涯奉仕しますので、イエズスさまにならってその民のために生きます。使徒言行録にこのこころが次のように記されています。
そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、 “霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使徒言行録 6・2〜4)
もともとイエズスさまご自身が十二人の弟子たちを呼ばれたときのことが、こう記されています。
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(マルコ 3・13〜15)
司祭への呼びかけ、それは良い羊飼いであるキリストになる呼びかけですね。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10・11)
司祭は預けられた羊のために生き、いのちをささげる召し出しに呼ばれています。わたしたちはみな異なる呼びかけによって同じ洗礼による信仰を証しします。イエズスさまが言われた通りです。
「…、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」 と。(マタイ23・8)
ではまた来週!