「いのちを与える霊」となる呼びかけ
―主任司祭メッセージ 2/27―



 

 この前の日曜日(2月20日)、聖パウロがコリントの教会への手紙の中で最初のアダムと最後のアダム、キリストについて話されましたが、キリストによって新しく創造されたわたしたちもキリストと共に“いのちを与える霊”となるよう呼ばれていますね。
 このキリストによる新しいいのち、「救い」を、教会は毎年一年間にわたってお祝いします。この救いの業は憐み深い神さまの愛によるもので、神は人間となられてマリア様からお生まれになり、その死と復活を通してわたしたちをも信仰によってその神秘に加えてくださいます。
 すでにわたしたちは人間となられた神さまの神秘をクリスマスのときにお祝いしました。そのあと「年間」という期間に入って、今日は「年間第8主日」となっています。これから救いの業の中心となるキリストさまの受難と死、それから復活のときをお祝いしますが、その準備として四十日間続く「四旬節」に入るところですね。その始まりは「灰の水曜日」で、今年は3月2日にあたります。
 キリストさまのご復活から「復活節」という期間が始まり、キリストさまによる新しいいのちの息吹である「聖霊降臨」の祝日まで続きます。その「聖霊降臨」の主日は教会の誕生日です。
 わたしたちはこのメッセージを通して、これからしばらくの間、キリストの救いの神秘にあずかる意味について深めていきたいと思います。

 わたしたちがキリスト信者であるのも、このキリストさまによる救いの神秘を信じることを表したからです。それは洗礼の時に初めて告白した信仰で、これによって教会に加えられました。
 今回は、まずこの救いの神秘について教会の信仰が何を教えてくれるかを学びたいと思います。
 
創造によって神さまは人間にいのちをお与えになり、人間だけをご自分の姿にかたどってお造りになりました。しかしそのみはからいに逆らって罪を犯した人間を救うために、神さまが人間となられ、そのいのちをおささげになり、罪を贖ってくださいました。
 具体的にイエズスさまに従って生きることは、どんな意味があるのでしょうか。そのことを理解するために、わたしたちの生き方を見てみましょう。

 普段人は自分を信じて生きていますね。去年の夏のオリンピック、また終ったばかりの冬季オリンピックを見てみれば、人はその努力によって「何かになる」と信じて生きているようです。つまりわたしたちが「何かをする」ことによって「何者かになる」と信じているのではないでしょうか?
 
この考えに対して信仰は何を教えてくれるでしょうか。それは「何かになる」前に、わたしたちがすでに「何かになっている」ということです。つまり神さまの創造により神の子どもとなったのに、罪を犯しそこから救われ、神の子どもに“戻されている”ということです。これだけ大きな愛で生かされているということです。わたしたちの中にすでに在る「善さ」の恵みに気づき、それを生かしながら生きることはまことの幸せですね。神さまが人間となられたのは、わたしたちがこのことを知るためです。これを教会は「グラチア=恵み」と呼び、この恵みは新しいいのちのもとに生きることを可能にしてくれるものです。この恵みはわたしたちが“すでにいのちの内にいる”喜びを教えています。つまりわたしたちはすでに永遠から神さまの大きな愛で可愛がられ、愛されているということですね。
 こう考えれば、いのち、幸せはわたしたちの努力によって手に入れるものではなく、いのちの源である神さまから与えられ、そのことによってすでに愛されていることを知るのですね。この知恵は信仰の恵みからくるものです。

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(Jヨハネ 4・16)

 罪のためにこころの目の見えないわたしたちをいのちの道に導いてくれるのが信仰ですね。これこそわたしたちを教会にしてくれる信仰です。つまりキリストが望まれた教会、ご自分の生きている体、またこの世を生かし、“いのちを与える霊”にしてくれる信仰です。

最後に星野富弘さんの次の詩をご紹介します。

風は 見えない
だけど 木に吹けば
緑の風になり
花に吹けば
花の風になる

今わたしを過ぎていった
風は どんな風になったのだろう


 ではまた来週!

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。