灰は物の終わりのしるしです。わたしたちが知っている火は物を燃やすもので、何もかもが消え去ることを思い起こさせます。でもこれと異なる火があります。この火は、燃えるけれど燃え尽きることがない。この火は聖霊降臨の時に現れた火ですね。この火のしるしを通して神さまはモーセにお示しになります。聖書の燃え尽きない柴のエピソードに次のようにありますね。 モーセは、舅でありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 つまりわたしたちが感覚で知っているいのちは、その終わりその死に向かっていきますが、信仰によってわたしたちが知っているいのちは、終わりがなく死に勝つもので、永遠のいのちである神さまに属しています。 灰の式は、信仰の恵みである回心を思い出させてくれます。また灰の式は、何もかもが過ぎ去る感覚だけを持って毎日を生きるのではなく、信仰に照らされた心の感覚を持って生きる尊さをわたしたちに思い出させてくれます。信仰の感覚がないとわたしたちの存在は「死」の定めの下に置かれてしまいますが、信仰の感覚のおかげでわたしたちの存在はいのちの勝利(死からの勝利)の下に置かれています。灰のしるしは、この感覚による回心を表わすものです。 キリスト信者であるわたしたちは過ぎ去るものを軽んじるのではなく、むしろその尊さを生かし、過ぎ去るものを愛の言葉として受け取って “ささげもの”にし、神さまへの愛を表わすものにします。そのことによって、過ぎ去るこの世界は“永遠のいのちの言葉”に変えられていきます。こうしてミサの時わたしたちはイエズスさまの聖変化によっていつも変えられ、キリストさまのいのちに与る者となるのです。 こういうわけで、四旬節は悲しむときではなく喜びのときですね。つまりこのときこそわたしたちは、死からの神の救いの喜びを知ることになります。これこそ信仰の恵みです。この救いにあずかるわたしたちは皆一つの恵みをいただきますが、この恵みは一人ひとりに異なる恵みですね。何故なら、わたしたちは一人ひとり異なる空間と時間(つまり身体)の中に生きているからです。 使徒パウロの言葉の通りに祈りたいと思います。 どうか主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。(Jテサロニケ 3・12〜13) この四旬節の季節こそ、互いに「おめでとうございます」と伝え合いましょう。この期間を祈りと共に喜びと感謝をもって過ごせますように! ではまた来週!
|