まことに 主はよみがえられた アレルヤ!

復活とは・・・・

 急に暖かくなって、風が満開のさくらの花びらの間を通りすぎていきます。
自然が美しい変容をとげるこの時期、私たちは主イエス・キリストの復活を祝います。

およそ二千年前のパレスチナにイエスという一人の男がいました。
私たちキリスト者は、このイエスを「キリスト」(救い主)と呼びます。
「イエス・キリスト」は名前ではなく、それ自体がイエスという歴史的人物を
 神からの救いをもたらす救い主と表明するひとつの信仰宣言です。

 イエスは歴史的な出来事の中では、約三年ほどの宣教活動を行なった末、当時の政治的・宗教的権力者たちから反感をかい、十字架につけられて殺されました。
そのような人がいったいどうして神の救いをもたらすことができたというのでしょうか?

 当時イエスに従っていた弟子たちも同じような疑問を抱いたことでしょう。
自分たちが「先生」と仰いでいた人は、単なる政治的反逆者の一人にすぎず、罪人としてこの世から排除されるような人だったのでしょうか?
そのような葛藤に悩まされていた彼らの前に、死んだはずのイエスが現れました。

 新約聖書の中にはイエスの墓が空っぽになっていた話、
そして弟子たちの前にイエスが出現する話があります。
これらの話の背後には、復活したイエスに出会った弟子たちの特別な体験があります。
それがどのようなものであったかを知ることは、私たちにはできません。
ただそれを体験した弟子たちの証言を受け入れ、信じることだけが私たちにできることです。

使徒パウロも次のように証言しています。

『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたと、
また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人(弟子たち)に現れたことです』

(コリントの信徒への手紙1 15:3ー5)

  キリスト教がまだ形成されてまもないころから、
信者たちはこの言葉を受け入れて自分たちの信仰の土台にしてきました。

イエスの復活は、イエスが伝えた福音を神の目で見て正しいことであったということを、
神の方から保証した出来事です。

イエスは生前、神の国の福音を人々にのべ伝えました。
神の国の福音とは、神がどのような方であるかを表すものです。

神は貧しく弱い者を決して見捨てることのない慈しみ深い父のような方であり、
できないことは何もない全能の方、何も無いところから世界を創造する方、
決して私たちを見捨てない方であるということです。
イエスはこの福音(よき知らせ)を言葉ばかりでなく、その生き方すべてで現しました。

イエスが哀れな死に方をし、復活したことは、
神がどのような方であるかを、今までにない方法で現すことでした。
すなわち罪と死から人間を解放する神の姿です。

イエスが復活したことは、死を超える生命への希望を私たちに与えます。
それは神の永遠のいのちに私たちが招かれていることです。

永遠のいのちとは、
有限ではなく無限が、苦悩ではなく至福が、枯渇ではなく充満が約束されていることです。

キリスト者は、イエスの復活をこのようなこととして信じています。
復活祭を祝うのは、こうした信仰を毎年新たな気持ちで確認するためです。

「……イエスは言われた。

『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』
……」

(ヨハネの福音書11:25-26)

 


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