主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第2主日(1/19)A年(ヨハネ1:29〜34)

洗礼者ヨハネによるイエスの証しの場面ですが、ヨハネ福音書では独特の描き方がされます。

「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは二度繰り返して強調します。これもヨハネ福音書の特徴で、ルカ福音書によればイエスと洗礼者ヨハネは親戚(はとこ)とされているので、まんざら知らないはずもないしな‥などと思ってしまうのですが、とにかくヨハネはイエスが「その方」だとは知らなかった、と強調するわけです。つまりヨハネは「知らない」人のために準備をした。それもすごいことだと思います。要するにこういうことでしょうか。自分が今していることの本当の意味は、実は後で明らかにされる‥と。わたしたちは自分ではわかっているつもりでその時々に色々なことをするわけですが、神さまはえてしてそれを意外なところにつなげられます。

自分の歩みを振り返っても、そういうことが多々あることに気付かされます。わたしは中学2年生の時、どうしてもギターが欲しくて、親に言って夏休み中毎日皿洗いをして買ってもらいました。それはもう嬉しくて、毎日ギターばかり弾いていました(その割にあまり上手くはならなかったのですが‥)。その頃は真剣に、将来プロのミュージシャンになりたいと思ってました。高校に入って本格的にロックバンドをやるようになり、ドラムをたたくようになってあまりギターは弾かなくなったのですが、大学に入ってから教会学校のリーダーになり、子供たちと聖歌を歌うのに意外とギターが役立ちました。今でも中高生や子供たちとギターを弾きながら聖歌を歌ったりしますが、その楽しさに《ああ、このためにギターをやれと言われていたのかな‥》と今更のように思います。

高校生の頃からはずっと料理人になるのが夢でした。残念ながら料理人にはなれなかったわけですが、司祭になってからずっと高校生や青年たちの合宿で料理を作っていて、自分の作ったものを目の前で「美味しい」と食べてくれる人がいることの幸せをかみしめる時、これもやっぱこのためか‥と思ったりするわけです。神さまは何一つ無駄にされない。何のために自分が召されているのか、実はこれも神さまのわざの中でどんどん変えられてゆくのです。

一つ言えるのは、すべての人は神さまから常に「呼ばれて」いて、それに応えようとするのが《キリスト者》である、ということです。第1朗読でイザヤは「母の胎にあったわたしを(神は呼ばれた)」と言います。旧約ではよく使われる表現ですが、要するに生まれる前からわたしたちは呼ばれている‥と。第2朗読でも、パウロは「召されたわたしたちから、召されたあなたがたへ」と手紙を書きだします。時代を超えて神さまは常に一人ひとりを呼び続けておられる。何かの折に言うことですが、「教会(エクレジア)」とは“呼ばれた者の集まり”という意味の言葉です。そして、神さまからの呼びかけは決して一回限りではない。

常に呼ばれ続けていることに共に気付き、それにいつも応えようとすることができますよう、共に祈りたいと思います。


ヨハネによる福音(ヨハネ1:29〜34)

 

(そのとき、)ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


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