主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第5主日B年(2/8)
[マルコ1:29〜39]


今日の箇所のように、イエスが病気の人を癒す場面というのは福音書の中でたびたび出てきます。これは聖書的には、他の奇跡と同じく〈イエスの背後にあって神御自身がはたらかれているしるし〉であるとされますが、象徴的に考えれば、神はイエスを通してわたしたちの〈病んでいる〉ところをいつも癒して下さる、ということとも取れるでしょう。しかし何よりもまず、神がどのような人々に真っ先に目を向けられているか、ということを示すものでもあります。

『聖書と典礼』のP7にもありますが、2/11は「世界病者の日」です。これは23年前にヨハネ・パウロK世教皇によって定められたもので、病者の存在に目を向け、彼らの苦しみが十字架のイエスのそれとつなげられているものであることに目を向ける日、とされています。ヨハネ・パウロK世はよく「苦しみは誰かの救いにつながっている」と位置付けられていました。だからこそ、すべての苦しみには意味がある、むだな苦しみは一つもない、と。わたし自身は、神さまは人の苦しみを必ず知っていて下さる、それどころか神御自身がその苦しみを共に担っていて下さる、キリストの十字架はまさにそのしるし‥と位置付けています。だからこそ、わたしたち司祭や奉仕者は病者に御聖体をお持ちするわけです。「あなたは教会に来られないけど、確かに教会とつながっていますよ、キリストの体の一部なのですよ」ということを伝え、感じていただくために。フランシスコ教皇も今年の世界病者の日のメッセージを出されていますが、今の教皇はむしろ病者に向けての姿勢を強調し「病者を訪れて下さい、病者に奉仕して下さい」と呼びかけられています。フランシスコ教皇らしいですね。わたしたちもそのために、病者の情報を下さい、と繰り返し皆さんにお願いをしているわけです。


わたしは司祭として病床を訪れる機会が多くあります。たいていの方は喜んで下さるし、呼ばれることも少なくありません。ただ、たまに逆のパターンもありました。ある教会にいた時、病院に入院した人のところに行こうとしたら、事務所の人から「そういえば同じ病院にもう一人入院されているから、ついでに行って下さい」と言われ、何も考えずに行きました。するとその人はわたしが突然前触れもなく行ったせいか、とても動揺され、わたしが教会に帰るよりも早く教会に連絡が入り「もう来ないで下さい」と言われてしまいました。その人は長崎の出身で、普段あまり教会にも来ていなかったので、わたしが行くことで何か咎められているように受け取ったのかもしれません。申し訳なかったなぁ‥と思います。他方で、あまり人に来てほしくない病床の方もおられます。衰弱した姿を見られたくないとか、様々な理由があるのでしょう。そういった方々には、決して押し売りになってはいけないと思いつつも、先ほど申し上げたように、何らかの形で「あなたも教会につながっている」ということを伝えることができればと思います。

今年も「世界病者の日」を迎えるにあたって、あらためて病床にある方々のために、必要な支えと癒しが与えられますよう、御一緒に祈りたいと思います。



(マルコによる福音 1・29-39)

(その時、イエスは、弟子たちに言われた。)「気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなた方が眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


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