主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第5主日B年(3/22)
[ヨハネ12:20〜33]



「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

この箇所を読むと、思い出す言葉があります。もうずいぶん昔に読んだ漫画なんですが、題名も覚えてません。主人公は獣医の男性で、あるときペットの犬が死んで悲しんでる少年に、こんなことを言うんですね。「いのちと死とは切っても切れないもの。生物は進化の過程において自ら『死』という概念を選んだとも言える。生物がまだ単細胞だった時は、永遠に細胞分裂を繰り返し、自分のコピー、つまりクローンを作っていた。その段階では厳密には『死』は存在しなかった。しかし生物は遺伝子を取り入れることであらゆる環境の中で生きてゆけるように、自ら『死』んで、次の世代にいのちを受け継いでゆく道を選んだ。だから死といのちとは一つ、死ぬことは生きることであり、生きることは死ぬことだ。死があるからこそいのちがつながってゆく。そして生きるものはいつか必ず死ぬのだ。親しいいのちが死ぬことは悲しい。泣くしかない。でもだから、その『死』はとても尊いものなのだ。」なるほど、そういう説明もできるんだな‥と思いました。

今年もキリストの十字架を見つめる季節になりました。ある意味で、イエスが十字架上で亡くなられたからこそ、今のわたしたちがいるとも言えます。あたかも生物が子孫を連綿と残し続けるように、わたしたちキリスト者もまた、〈キリストのいのち〉を受け継ぎ続けて来たのでしょう。カトリック新聞に、京都の柳本師が「わたしたちはキリストのDNAを受け継いでいる」と書かれていました。なるほど、その通りですね。

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」ちなみにここで「自分の命」と訳された「命」はこの世で肉体を維持する生命を表すブシケーという言葉で、「永遠の命」の「命」はそれとは違うゾーエという単語、すなわち“神との結びつきにおいて生かされるいのち、この世を超えたいのち”という意味の言葉が使われているそうです。日本語訳ではわかりませんが。その意味ではわたしたちはこの世を超えた「いのち」を受け継いでいる、そしてまたつなぎ続けてゆく、と言えるかもしれません。

今年は長崎での信徒発見から150年です。これもまた、キリストのいのちが受け継がれ続けて来たひとつのしるしでしょう。今年もキリストの受難と復活の記念の時を迎え、改めてこのわたしたちにとっての大きな恵に心を向けたいと思います。



(ヨハネによる福音 12・22-33)

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる

  今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。(ヨハネによる福音  12:20-33)


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