[主任司祭メッセージ]
No.110 キリストを信じるわたしたち とは?
2022年05月29日
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭
マリオ・ビアンキン神父
皆さんは福音書にある若い青年のエピソードをご存じと思います(参照 マルコ 10・17-22)。
その青年の望みはとてつもなく大きなもので「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ 10・17)というものでした。このエピソードのポイントは、この後にあります。
われわれと共におられるキリスト
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。(マルコ 10・21)
ここにキリストを信じる者はどういう人であるかが、はっきりと教えられています。それはパーソナルな形で神さまから“愛されている”ということにあります。わたしたちひとりひとりは愛されて、その愛に応えるようにと召されているという者です。これほどキリスト信者のアイデンティティを教えてくれる言葉はないと私は思っています。
けれども、キリスト信者を知らない立場の人から見たときキリスト信者がどのような者であるか、これついて二回にわたってお話させていただきたいと思います。参考にさせていただくものは、初代教会に書かれたもので、あの時代の社会の人々に「キリスト信者とは何者か」を説明する貴重な手紙です。すなわち「ディオグネトスへの手紙」の文章です。この文章はその社会の中に住んでいたキリストを信じる人々の生活の様子について書いていて、キリスト信者を説明しています。
実は今教会のカレンダーによると、わたしたちは復活節の期間の終わりを示す二つの大きな祭日をお祝いすることになっています。それはイエズスさまの「主の昇天」と教会の始まりを示す「聖霊降臨」の祭日です。聖霊によってこの世にマリアさまからお生まれになった主イエズス・キリストは、その生涯を通して果たされた救いの業の後 天国からその聖霊を送ってくださり、神さまの御はからいが実現される時までその教会であるわたしたちをご自分の体にしてくださっています。
今日の社会のうちに生きる教会は、どのように社会から見られているのでしょうか。「ディオグネトスへの手紙」を少し読んでみたいと思います。
5・1-2 キリスト者は、住んでいる地域によっても、言語によっても、また生活習慣によって、他の人人と
異なっているわけではありません。
自分たちだけの町にすんでいるわけでもなく、また何か独特の言語を使ったり、風変わりな生活を営ん
でいるわけでもないのです。
つまり、あの時代の信者はみんなと同じように社会の中に生きています。
5・3 その教えは、詮索好きな人たちの考えや思い付きで考案されたものでもなく、また、他の人々のよう
に人間的な教養を打ち立てることに心を砕いているわけでもありません。
ここは生きる知恵となるものについて書かれています。つまりキリスト信者は人間による知恵ではないものによって生きている ということが強調されています。
5・4-5 彼らはそれぞれの運命に従って、ギリシャの都市や外国の都市に住み、衣服、食べ物、それ以外の
生活様式の点でも、その土地の習慣に従っています。しかしながら、常識では信じがたい、驚くべき生
活を送っています。
母国に住んでいますが、それはあくまでも寄留者として、です。市民としてすべての義務を他の人々と
ともに果たしていますが、外国人のように、ありとあらゆる辛苦を味わっています。彼らにとっては、
どの外国も母国であり、どの母国も外国なのです。
ここに、その社会を支える知恵と異なる独特な生きる知恵を持ってキリスト者が生きていることが強調されています。
5・6-10 他のすべての人のように結婚して子どもをもうけますが、生まれたばかりの子どもを捨てることは
ありません。
共同の食卓は整えますが、床を共同にすることはありません。
肉体をもって生活していますが、肉に従って生きてはいません。
地上で時を過ごしますが、天上の市民なのです。
定められた法律は守りますが、自分たちの生活では法律を凌駕(りょうが)しています。
すなわち、ここには細かくその異なる生き方について書かれていますね。
5・11-17 すべての人を愛していますが、すべての人から迫害されています。
無視され、罰され、死刑に処せられていますが、それによっていのちを得ています。
無一文ですが、多くの人を富ませ、ありとあらゆるものに事欠いていますが、あらゆるものに満たされ
ています。
軽蔑されていますが、軽蔑によって栄光を得、悪口を言われても、正しい者とされています。
ののしられても祝福し、侮辱されても相手を敬います。
よいことをしても悪人のように罰されています。しかし、罰されてもいのちを与えられるかのように喜
んでいます。
ユダヤ人たちからは異邦人として攻撃され、ギリシャ人たちからは迫害されています。しかし、彼らを
憎む人でも、その憎しみの理由を指摘することはできません。
ここには、社会のキリスト信者に対する理由のない迫害が記されています。そのわけは次のように書かれています。
6・1 一言で言うなら、魂が体の中にいるように、キリスト者は世の中にいるのです。
まことにイエズスさまが言われた通りですね。
「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
人々はあなたがたを街道から追放するだろう。しかも、あなたがたを
殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
かれらがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」(ヨハネ 16・1-3)
この続きを来週のメッセージでご一緒に読んでみたいと思います。さらに聖霊によってわたしたちは死んで復活され昇天された主イエズス・キリストと共に生きる喜びを思い出させていただきたいと思います。
また来週!
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使う ように定めています。ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。