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[主任司祭メッセージ]
No.117 (7/17)静かに心の耳を傾けて生きるマリアさま

2022年07月17日

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭
              マリオ・ビアンキン神父

 

 

耳を傾けているマリアさま

 

眠っていても
わたしの心は目覚めていました。
恋しい人の声がする、
戸をたたいています。
(雅歌5・2)

 これらの言葉は雅歌にありますが、マリアさまについてこう記されています。
                  しかし、マリアはこれらの出来事を
                  すべて心に納めて、思い巡らしていた。(ルカ2・19)

 ここで紹介させていただくマリアさまのイコンは、神さまが語る言葉に心の耳を傾けるために、「静粛」を呼びかける姿です。わたしたちは今回、この心の態度について少し考え近づきたいと思います。
 音を聞くとき、五感の“感覚”による知り方と 五感を通して“読み取る心”の知り方があります。
 つまり、聞く力は五感によるものですが、それを読み取る力は心によるものですから。
 何らかの音を耳にするときその音は人の外にありますが、心の耳でその音を読み取ることで、聞いたものが自分の中に入り、その人のいのちとつながるものとなります。
 五感の感覚に触れるものは過ぎ去り終わるものですが、それらのものを心の耳の感覚が受け取るとわたしたちの心に“語る”言葉となって残ります。
 これと同じようにわたしたちを生かす最も大切な力である“愛”を、ただ五感の感覚レベルで知ることはできません。“愛”を知るためには心の耳を傾けて聴き、五感に触れるいろいろなことを“いのちの言葉”として読み取る必要があります。(参照 使徒言行録 5・20)
 この態度はマリアさまの態度であり、またわたしたちひとりひとりイエズスさまの教会としての態度でなければなりません。

 例を一つ挙げましょう。ヨハネの福音書にイエズスさまがご自分が与えようとされる「いのちのパン」について語る話がありますが、人々はその話が理解できません。きっとそれは彼らが聞いても理解するための心の耳がないからでしょう。そのため、一人また一人とイエズスさまから離れていってしまいます。

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
(ヨハネ6・66~69)

 このペトロの言葉こそ わたしたちの心の感覚による信仰を表すものですね。

 人間はこの世に生きるために、五感を通して知ることだけでは足りず、その現象が“ことば”として人間に何を語っているかを“読み取る”ことを学ばなければなりません。生涯を通して経験するさまざまな現象を“言葉”として読み取って自分の毎日の生活をつくっていかなければなりませんね。
けれどもキリスト信者にとっては、これらの言葉はこの地上での命についてだけ語っているのではありません。ペトロの言葉を借りれば、この言葉は“永遠の命の”言葉として読み取るものとなっています。マリアさまと同じように…。
 つまりキリスト信者にとって、自分の毎日の経験は、愛である神さまの“愛の言葉”となっています。この地上で終わる愛ではなく、死より強い愛の言葉として読み取るのです。
 こうして「静かに心の耳を傾けて生きる」意味はここにあります。この感覚(グラチア)のおかげで、わたしたちは今もずっとイエズスさまご自身に出会うことができるようになります。わたしたちの毎日の出来事は、イエズスさまの存在の“しるし”となっているからです。また「人」(隣人)こそイエズス様の存在の“しるし”ですね。人との関係の中に体験することを通して、わたしたちは主の愛の言葉を理解することになります。わたしたちキリスト信者は、隣人とのふれあいの中で神さまの愛の言葉に触れることになるのです。善きサマリア人の話を思い出しましょう。(参照 ルカ10・25~37)

 こう考えると ではどうして人の心に暴力が宿ることになってしまったのでしょうか?
 人の心に暴力が生まれるのは、きっと人が五感を通して知る世界を超える「愛の言葉」を読み取ることができなくなっているからでしょうね。不思議なことに人だけが“死”を目的に死を作り出すのです。

 わたしたちも愛の言葉を読み取り また愛の言葉を語るために、どうすればいいでしょうか。それは、いつもわたしたちに語ってくださるイエズスさまに心の耳を傾けて生きることですね。(参照 マタイ11・28~30)ミサの中でいのちの糧を与えてくださるイエズスさまは、わたしたちにもいつもすすめてくださいます。「これをわたしの記念として行いなさい」(奉献文より)と。それはわたしと同じように隣人になりなさい ということですね(参照 ルカ10・25~37)。

 キリスト信者は、マリアさまから学んで心静かに 心の耳を傾けて神さまの「愛」の言葉を読み取って生き、またこの生きる知恵を世界中の人々に伝えます。この生きる知恵が世界中の人々のためのいのちの知恵ともなりますように。

 では、また来週!