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[主任司祭メッセージ]
No.118 (7/24)いつも共にいてくださる 心の“友”であるイエズスさま

2022年07月24日

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、
これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
(ヨハネ15・12~15)

 

 これらの言葉はご受難に入る前、遺言としてセナクルムでイエズスさまが弟子たちに残されたお言葉です。皆さんもよくご存じの挨拶の言葉ですが、ミサの中で四回 祭司が言う挨拶があります。それは「主は皆さんとともに」です。すなわちそれは、ミサが始まる時、福音書を読む前、奉献文の叙唱の前、派遣の前の挨拶です。最近新しく訳された式文では、会衆の返事は「また司祭とともに」ではなく「またあなたとともに」とあります。

 実はこの挨拶について初代教会の説教に次のようにあります。イエズスさまがその死の後で陰府に下られ人祖アダムとの間に交わされた挨拶です。
 主は勝利をもたらす十字架という武具をもって、かれらのもとに入って来られました。主を見たとき、人祖アダムは驚きのあまり胸を打ちながら、皆に向かって叫びました。「わたしの主は皆さんと共に」。キリストはアダムに答えて言われます。「またあなたの霊と共に」。そしてアダムの手を取って起こしながら言われます。「『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』
 わたしはあなたの神である。それなのに、あなたのためにあなたの子となったのである。あなたとその子孫のために、今あなたに告げ、わたしの権威をもって命じる。鎖につながれている者には『出よ』、闇にいる者には『光を受けよ』、眠りについている者には『立ち上がれ』と。
 あなたに命じる。眠りについている者よ、起きよ。わたしは、あなたが陰府の国にいつまでも捕らわれの身でいるためにあなたを造ったのではない。死者の中から起き上がれ。わたしは死者のいのちである。わたしの手で造られた者よ、起きよ。わたしに似せて造られたわたしの似姿よ、起きよ。立て。ここから出て行こう。あなたはわたしのうちにおり、わたしはあなたのうちにいる。わたしたちは唯一で不可分の身なのだ。…」(毎日の読書 偉大な聖土曜日のための古代の説教) 

 つまりこの挨拶「またあなたの霊とともに」は、主の勝利またわたしたちの勝利の挨拶ですね。わたしたちも洗礼の時に「信じます」という言葉で主の勝利に加えられて「キリストの新しいいのち」に生まれました。これが教会の信仰です。

その日すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネ20・19~20)

 この時からイエズスさまは、いつも“わたしたちのよい友”としてわたしたちと共におられます。
 ご昇天の時に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20b)と弟子たちに言われた通りですね。
 つまりわたしたちのいのち またわたしたちの幸せはイエズスさまと共に生きることですね。イエズスさまはわたしたち一人一人のよい友であるから、わたしたち一人一人の心に語ってくださいます。イエズスさまはわたしたちの心の戸口にいつも立って たたいておられます。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて
戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3・20)

 言葉をかえて言えば、愛に結ばれてイエズス様と共に歩む これがわたしたち一人一人のイエズスさまとのつながりです。イエズス様は次のように言われました。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
         わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」(ヨハネ14・23b~24a)

 先に“命令”が来るのではなく、まず“愛”が来るのですね。イエズスさまはわたしたちに愛するように命令されるのではなく、イエズス様を愛すればその掟を守ることになると言われますね。イエズスさまが先ずわたしたちを愛してくださったので、わたしたちにも愛する力が与えられるからです。そのためにこそイエズス様はご自分を低くされて…「キリストは、神の身分でありながら、…へりくだって、死に至るまで…」(参照 フィリピⅠ 2・6~11)とある通りです。

 実は私自身は子どもの時から家族の一人のようにイエズスさまと接することを学びました。そのおかげで“よい友イエズスさま”に招かれたと感じて七十年前に11歳で小神学校に入ることになったのです。私にとってイエズスさまとのこのような関係は 当たり前で、なくてはならないお方です。けれども皆様の中でこうした育ちとは異なり大人になってよい友イエズスさまを知った方も多いと思いますが、イエズスさまと共に歩むことをぜひ身に付けてほしいと願っています。キリストを信じて生きることはまことの喜びですね。

 来週からこのメッセージはしばらく夏休みに入ります。次回は9月4日から再開します。イエズスさまと共にこの夏を過ごしましょう。ではまた!