[主任司祭メッセージ]
No.120 (9/11)すべては あなたがたのもの
2022年09月11日
毎年9月8日に教会は「マリアさまの誕生」をお祝いします。そのお父さんの名はヨアキム、そのお母さんの名はアンナでした。マリアさまは新しい「日」であるキリストの曙とも言われます。
この祝日はクリスマスの前ぶれであり、教会は古くからその日を祝い、希望と喜びに満ちた祝日として迎えてきました。それは、マリアさまに与えられた恵みが教会の恵みをかたどっているからです。つまりマリアさまがその恵みに身を開かれて救い主の母となられたように、母なる教会も私たちを産むからです。
実はこの世に生まれる人々は誰でも、マリアさまに学んでその身も心も神さまの恵みに開けば、神さまの祝福をもたらす者となり、幸せな者となるでしょう。エリザベトのマリアさまへの言葉を思い出しましょう。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1・45)マリアさまご自身もこう言われます。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・48)と。
けれども、コリントの教会と同じように今日の社会に生きるわたしたちは、神さまの恵みに心を開かずに争い、まことの幸せを探して躓くばかりです。
そこでパウロはコリントの教会に宛てて “何処にまことの幸せの道があるか” を示すために次のように語ります。
だれも自分を欺いてはなりません。…
だれも人間を誇ってはなりません。(誰も人間に栄光を置くことはできません。)
すべてはあなたがたのものです。
パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、
今起こっていることも将来起きることも。
一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、
キリストは神のものなのです。
(Ⅰコリント3・18、21~23)
つまり天の父に心を開くこと、そこに幸せがあり、平和への道がありますね。この言葉を読むたびに、わたしはみんなに叫んで伝えたいと思います。これを信じ、これによって生きる、ここに“幸い”があります! この言葉には福音のすべてが含まれており、また私たちの信仰もここにあります。
私事ですが、わたしは来日して50年になります。日本に来た当初から日本の社会のこころを表す「和」という言葉を知り、とても感動しました。しかし、日本の皆さんが本当に幸せかどうか、50年経った今もそれは確かめられません。
しかしこれは日本の社会だけの問題でしょうか? ことに最近の世界は、科学や技術の力を使って必死に幸せな社会をつくろうとしていますが…。このような事実は世の初めから人間が体験しています。あの原罪(最初の罪)のときから…。幸せが自分の力によるものだと考えて、幸せはいのちと同じように贈り物であるという真実に心を開こうとしないからです。
こういうわけでイエズスさまは次のように言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・3)と。子供の心を持たなければ、天の父の愛の言葉に目覚めることはできないでしょう。そのことをわかるように、神さまはそのひとり子イエズスさまをこの世に送ってくださいましたね。
「すべてはあなたがたのもの」このことは私たちがよく知っていることですね。しかしこの「すべて」は過ぎ去るものですね。まさしく言葉の音と同じです。こうして神さまの愛の言葉を表す音にとどまらずその音の伝える真実に心を留めなければ、神さまの言葉も過ぎ去ってしまいますね。
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、
ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。…(マタイ13・3b~4)
ということになります。
こうして人は不幸せで孤独になり “愛されていること”を知らないままになります。しかし信仰の恵みは、神さまに“愛されている”ことを過ぎ去るすべてを通して教えてくれます。
この世に生まれる人は誰でも、生まれてから天の善い父である神さまの愛の言葉に“目覚めるように”呼ばれています。しかし、この呼びかけに応えない限り、触っても感じない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない状態で、わたしたちは生きる喜びを知らないままになるでしょう。こうした理由でパウロのあの言葉「すべてはあなたがたのもの」を思い出すことは大切なことですね。
パウロのほかの箇所の言葉を思い出させていただきます。
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、
だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしてもわたしたちは主のものです。
(ローマ14・7~8)
マリアさまの恵みのうちに生きたいと思います。
では また来週!