[主任司祭メッセージ]
No.123 (1/15)新しい年の恵み
2023年01月15日
恵みは神さまの愛の言葉に目覚めて、その言葉に心を開き、またそれによって喜ぶことです。時間のうちに生きているわたしたちは、自分のいのちを支えるために愛の言葉目覚めることが必要です。
時間と空間の中に存在するわたしたちに神さまは常に愛の言葉をくださっています。また自然が太陽の恵みを受けるように、人が神の言葉を受け取って生き、それから愛の言葉を語り、愛の実を結び、神さまの愛に応える幸せを味わうのです。このことが救いの恵みで、クリスマスがもたらした恵みでもありますね。
恵み(グラチア)、つまり神さまの無償の愛の内に生きる幸せを知る、それがキリスト信者に与えられた神さまからの贈り物です。
でもこの恵みに心を開くと、地上で生きる重荷がなくなるわけではありません。キリストの恵みの内に生きる重荷は「愛の重荷」で、その重荷は「たしかな希望」とつながっています。使徒パウロは次のように言われます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、希望を誇りとします。わたしたちは知っているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
(ローマ5・1-5)
イエズス様も同じことを言っておられます。つまり重荷がなくなるわけではなく、その重荷は軽いと言われます。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、
あなたがたは安らぎが得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11・28-30)
これこそイエズス様の十字架の愛の神秘です。それは、いのちを捧げることによってイエズス様と結ばれ、神さまの愛に与かり、そのいのちの中に生きるということです。
この年の初めにも、イエズス様とともに神さまの恵みの内に歩みたいです。毎日愛の重荷を希望をもって迎え入れながら、イエズス様と共に歩みたいですね。
ここで思い出させていただきたいことが二つあります。
①もう三年になりますがわたしたちの中で続くコロナによる試練です。社会だけではなく教会の生活にとって大きな重荷となりつづけていますね。このコロナの中で皆さまの愛を表す奉仕を感謝するとともに、わたしたちの中の最も弱い立場の方々のために祈りたいと思います。また信者としての支えを必要とされる方は遠慮なく教会にお頼みください。
②さらに今年は10年間も続く教会建物の建設プロジェクトがようやく始まる年にもなっていますね。わたしたちにとって大きな試練の年でもあります。工事中は聖マリアンナの聖堂をお借りしますので今までと違ういろいろな不自由も起こるでしょう。聖マリアンナ病院に感謝するとともに、これに伴う困難を神さまがくださる恵みの時として迎え入れていきたいと思います。
他にも愛の重荷となる試練は、きっとわたしたちの歩みの中にいろいろ現れてくるでしょうがこれらのことすべてが、神さまの豊かな恵みの中でわたしたちの慰めと喜びの材料となることを確信しています。
教会の母でもおられるマリア様のお言葉を思い出しましょう。カナでの婚宴のときにマリア様はこう言われました。
…母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
(ヨハネ2・5)
婚宴の喜びを支えるぶどう酒の不足、それはわたしたちがいつも感じる命の足りなさを示しますね。その足りなさを補うために愛の重荷を先に背負ってくださるイエズス様を信じてついていきたいと思います。