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[主任司祭メッセージ]
No.115 ‟いのちの道”に先立って行くイエズスさまと共に

2022年07月03日

カトリック百合ヶ丘教会主任司祭
マリオ・ビアンキン神父

 

 

 イエズスさまは、わたしたちをいのちの道に導く“善い先生”でおられます(参照マルコ10・17)。昔からイエズス様は、先生の姿を表すために“椅子(座/カテドラ)”に腰掛けて教えられる姿で表されました。
 そこから司教座は司教様のおられる教会と呼ばれ “カテドラル”と言われました。またミサのときキリストの姿である司祭は、教師キリストを表わすための特別な椅子に座って典礼を司ります。
 実は受難を前にして あの最後の晩餐のセナクルムの部屋に集められていた使徒たちに、イエズス様は次の言葉を述べられます。

「だが、あなたがたが散らされて自分の家にかえってしまい、
わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。
しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
      わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16・32~33)

 これらの言葉はミサの奉献文の終わりにある言葉を思い出させてくれます。
 キリストによってキリストとともにキリストのうちに、 聖霊の交わりの中で、
 全能の神、父であるあなたに、 すべての誉れと栄光は、世世にいたるまで、アーメン。
 これらの言葉はわたしたち一人一人の歩みを示し、イエズスさまを「先生」として信じて従う人々の歩みを示しています。    

 実はこの世に生まれたわたしたちの歩みは、“神の子ども”として生きるために始まった歩みです。このために神さまは人間となられ、イエズスさまが言われた通りわたしたちのために「道・真理・命」(参照ヨハネ14・6)となられました。わたしたちが皆それぞれの道の歩みのうちに神さまと出会い、いのちの道に導かれるためです。つまりそれは“愛されている”ところから わたしたちも“愛する”ことを学び、神さまのいのちの内に生きることを学ぶからですね。

 実はパパフランシスコの最初の使徒的勧告「福音の喜び」の序文にも次の言葉があります。
 「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」と。
 キリスト信者としてその“新しいいのち”生きる、それはこの世の光であるキリストさまと共に、わたしたちもこの世に命の光をもたらすものですね。福音書に次の言葉もあります。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。
          だから、世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ15・18~19)

 つまり迷いの中にあるこの世をイエズス様と共にわたしたちも照らし導くために、イエズス様と共に愛の証しの道を歩むのです。このイエズスさまの言葉もあります。

「…人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることなる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
(ヨハネ12・23b~26)

 わたしたちはこの世に生まれ出る時 大きな変化を体験します。それは自然の中に実現されるものですが、「洗礼」の時わたしたちは イエズス様に『わたしはあなたを信じます』と宣言して、新しさに満ちた“いのちの道”を歩むことを決心するのですね。こうして旅をするのと同じように新しいいのちの道を歩むと、まったく新しい世界が開きます。少しずつ わたしたちの毎日を神さまの感覚をもって見るようになるからです。
 この世の中には思い通りにならないことが多いですね。例えば今年は6月にもう梅雨明けになりました!でもイエズス様が導いてくだる道は自然の中の働きと違い、その「新しさ」は神さまの愛によるものです。ヨハネは次の言葉でわたしたちの信仰による“新しいいのち”について語ります。

…、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、
あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
世も世にあるものも、愛してはいけません。
世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、
御父から出ないで、世から出るからです。
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。
           しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(Iヨハネ2・14b~17)

弟子たちと共にいつも祈りたい、「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17・5)と。

 わたしたちはキリストさまを囲んで祭壇でお会いするたびに、この世の旅路を続けるイエズス様の兄弟として集められ キリストの体の糧によって養われ、その旅路を続ける力をいただくのです。こうして わたしたちはこの暑い夏の始まりに 良い旅路を続けられるよう祈りたいと思います。 

 また来週!

 

* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使う ように定めています。ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。