[主任司祭メッセージ]
No.114「アベルの日」 今年は三年目
2022年06月26日
カトリック百合ヶ丘教会主任司祭
マリオ・ビアンキン神父
ア シジにある聖ダミアーノ教会の十字架
しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、
生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの
祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、
すべての人の審判者である神、
完全なものとされた正しい人たちの霊、
新しい契約の仲介者イエス、
そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
(ヘブライ12・22~24)
カインとアベルの話は皆さんご存じですね。この話は原罪による哀れな結果を示す話です。善さに満ちたこの世界に罪が死を招き入れたことを このエピソードは表しています。
神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
(知恵の書1・13~14a)
神さまはご自分が造られた世界に「秩序」を入れられました。たとえば、太陽が朝寝坊することはありませんね。けれども神さまが人をお造りになったとき、人をご自分に象って造られ、人間の心に自然の中に働く力と異なった新しい力を入れられました。それは“神さまの愛のうちに生きる”力です。神さまは愛であるからです。この力がなければ、人は愛を知ることもないでしょう。
ヨハネの手紙にこう書いてあります。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4・16)
つまり神の愛の内にとどまるために人間は神さまの愛の言葉を“読み取る”ことを学び、それを“信じ”なければなりません。そうすると、罪は愛である神さまへの不信仰であることが分かるでしょう。
ですがアダムとイブは誘惑者の言葉を信じました。実は最初の暴力の元こそ この誘惑者の言葉にあります。この言葉は真実を偽った「嘘」です。その時から人の心には不信が入り、神さまの言葉を信じて生きる力が弱まり、暴力を通していのちを求めるようになりました。つまり暴力は神さまから愛されていないという感覚から生まれますね。いのちは“いただく”ものではなく、暴力をふるって“手に入れる”ものだというこころです。ここからあらゆる嫉妬心が生まれます。その心はカインの暴力を生みました。
人の心の中に働くこの「死」の力に勝つために、人は神さまに愛されていることを知らなければなりません。ここに導く恵みは信仰です。つまりイエズス様を通して罪を贖ってくださった神さまの愛を信じることですね。
このためにわたしたち百合ヶ丘教会は「アベルの日」を定めることがふさわしいと思いました。毎年この日を「イエスのみ心」の祭日の翌日 つまり「聖母のみ心」の日(今年は6月25日)に行うことになりました。
その目的は、
1.この教会が体験した暴力を思い出しこの世の暴力の存在をしっかりと認識しながらも、これに対する神の愛を“信じる”ことです。“信じること”は、こころの中の確信を平和の道につなげることです。(参照:マタイ5・1~12)
2.“神の愛を信じる”ことはイエズスさまが導いてくださる新しい道ですね。これはイエズスさまと共にその暴力の重荷を御父のみ手にゆだね、イエズスさまとともに愛のささげものとしてその暴力の重荷を“ささげる”ことです。十字架上のイエズスさまのお言葉どおりです。
父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23・34)
3.こうしてイエズスさまのもとで新しい世界 つまり平和への道が開けますね。この新しい世界は、わたしたちがミサを行うたびに実現され、またそれを造るため 界です。
主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。(第二奉献文) と。
実は暴力が取るかたちはレギオン(軍団)で 数えることはできまませんが、それ等すべてが“いのち”を奪い取ろうとするものです。ヨハネの手紙にある通りです。
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。(Ⅰヨハネ3・15a)
終わりにミサの聖変化の後の第一奉献文の言葉で祈りたいと思います。
このささげものをいつくしみ深く顧み、こころよく受け入れてください。
義人アベルの供えもの、太祖アブラハムのいけにえ、
また、大祭司メルキセデクが供えたものを、
とうといささげもの、汚れのない いけにえのしるしとして
受け入れてくださったように。
また来週!
* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使う ように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。