「どの掟が最も重要でしょうか」‥旧約聖書において「掟」とか「律法」と称されるものは、実に613項を数えると言われています。そんなにたくさんあると、どれが一番重要なのかだんだんわからなくなってくる。この律法の専門家の質問は、実際に当時しばしば議論されたものだったようです。マタイはこの場面を言わば「悪意の質問」にしていますが、もとのマルコの並行箇所では、単にイエスに対する純粋な問いかけになっています。この質問に対しイエスは実にさらっと答えます。「いや、神と人とを愛することだよ」と。考えてみれば律法自体、もともと出エジプトという救いの出来事が生み出したものでした。奴隷状態にあったエジプトから、イスラエルの民が神によって救い出されたという体験です。そして「こんなにもわたしたちは救われたのだから、救って下さった神さまを大切にしよう、そして救われた者どうし、お互いを大切にしよう」という、言わば「神と人とを大切に」というのが律法の始まりでした。それが時代がたつにつれて様々な解釈や付帯事項が加えられ続け、ついには613項にまで膨れ上がってしまったわけです。そこからするなら、イエスは律法や掟が作られたその大元に戻した、と言ってもいいでしょう。もともと何のための掟だったのか、と。
では「神を愛する」とはどういうことでしょうか。「人を愛する」というのはある意味わかりやすいです。ここでの「愛する」とは〈アガペ〉の動詞形〈アガパオー〉、つまり実際にその人のための何かをすること。第一朗読で言われるように、困っている人、弱い立場にいる人に手を差しのべることなどがイメージされるでしょう。では「神をアガパオーする」とは何をすることなのか。熱心にお祈りすることか、ミサに欠かさず出席することか‥まぁ無論それらも含まれるでしょうが、ここにはさっき触れた出エジプトと律法との関係が大きなヒントになっていると思います。つまり、「神の愛」が先にあるという事。神さまがこんなにもわたしたちを愛して下さっている、それも〈アガパオー〉の愛、つまり実際に救いのわざをわたしたちの内におこなっていて下さる。そのことが本当に実感できる時、わたしたちはその頂いた「愛」を人と分かち合おう、つまり自分も人を〈アガパオー〉しようと思えるのではないでしょうか。そしてそう考えると、「神を愛する」とはその神の大きな愛に気づくこと、そこに常に目を向けることと言ってもいいのではないかと思います。
先日、集会祭儀の「すすめのことば」の中で、神の救いを実感することの中に人との出会いとつながりがあること、実は先日わたしも今まで電話やメールでしかつながっていなかったある方と偶然お会いすることができて感動したと、少々興奮気味に書いちゃいましたが、具体的なことには何も触れなかったので、聞いていた皆さんはさぞかし欲求不満になったのではないかと思います。
そしてこれも偶然ですが、今日福島の「やさい畑」の方が野菜を売りにいらしているので、今日この話をするのがいいと思いました。実はその方とは、「やさい畑」の代表を務めておられる、福島二本松教会の柳沼さんなんです。以前から、教区の青年たちとやっている例の「Peace be with You」から「やさい畑」に何度か援助させて頂いて、柳沼さんとは電話やメールのやり取りはしていましたが、実際にお会いしたことはありませんでした。ちょうど一ヶ月前の9/28、第二地区の中高生の集まりが菊名であり、わたしはミサの後菊名にとんで行きました。すると菊名の信徒館の前にプラスチックのケースが山と積んであり、その間で一人のおばさんが本を読んでいました。誰かな‥と思っていましたが、その人は長い事ずっとそこにいるんです。あとから聞いたら、その日たまたま菊名で「やさい畑」の販売があり、柳沼さんは他の教会に販売に行っている仲間の方と車を待っていたんだそうですが、わたしは「なんであの人ずっとあそこにいるんだろう‥見たことないし」などと思っていました。
向こうもわたしを見て同じようなことを思っていらしたらしく、ただ柳沼さんは百合ヶ丘のホームページを見てわたしの顔を知っていたので「あのおじさんどこかで見た顔だけど誰だったか‥午前中にはいなかったし怪しいし」と思っていたんだそうです。そこに菊名の信者さんがやってきたので「あのおじさん誰」と聞いてわたしを認識して下さった。そして話しかけて下さって、わたしも「えー!あなたが柳沼さんだったんですか」と仰天しました。菊名の方が現れなかったら、お互いに怪しいオジサン オバサンだと思って物別れになるところでした。あまりの感激とやっとお会いできたという喜びに、これぞ神さまの愛、救いのわざ!と実感したのです。そしてこの出会いがこれからさらに色々なことを生み出していく、また何かにつながっていくということも確信しました。
神さまの愛のわざは、わたしたちの日常の様々なところで、まさにたくさん溢れています。わたしたちはえてしてそれに気づかなかったり、見逃したりすることが多い。そんな神さまの愛に日々気づき、それに目を向けることで、わたしたちもその「愛」を多くの人と分かち合ってゆくことができますよう、御一緒に祈りたいと思います。
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