ここ何週間か、どうも感じの悪い福音の箇所が続いていますが、これはマタイ福音書の編集者が、祭司長や長老たちといった当時のイスラエルの宗教的・政治的指導者層に対する痛烈な批判の言葉をここにまとめて編集した結果だと思われます。
今日の『婚宴のたとえ』にも、実は編集者の手がかなり入っていると言われています。ルカ福音書に並行箇所がありますが、見比べてみると、マタイの方ではわざと感じの悪いものにされているのがよくわかります。そこでもともとのたとえの大筋を見てみると、「素晴らしい宴会に招かれているのに、招かれた人々は自分の生活や仕事を優先してその招待を断わってしまった」というものになります。マタイではそれを「王が催した王子のための婚宴」とし、それがとてつもなく豪華な宴会であることが強調され、対してそれを断わる人々は暴力をふるうなどして、その考えられない無礼さが強調されています。これは「わたしたちはいつも想像を超える神の救いのわざに招かれているのに、自分のことばかり見ているとそれに気づかず、また場合によっては自らそれに背を向けてしまう』という警告であると言っていいのではないでしょうか。また今日のマタイの箇所の後半ではさらに「礼服を着ていない人への非難」が書き加えられていますが、これも“自分がどんなに素晴らしい宴会に招かれたか”に気づいていないことへの警告となっているものでしょう。
では、わたしたちにとってそれほどすごい神の救いのわざとはいったい何でしょうか。色々な位置付けがあると思います。世の終わりの最終的な救いの完成、またわたしたちがこの世を去った後の、神のみもとでの永遠の安息という救い。でもわたしたちのこの世における日常という視点でそれを見る時、わたしにとってそれは『人とのつながり、出会い』であると感じます。神さまは色んな人を不思議な形でいつもつないでおられる。人間の目にはそれは単なる偶然としか映らなくても、わたしたち信仰者の目からはそれこそが想像を絶する神の大きな救いのわざであることがわかるのではないでしょうか。「教会はせまい」「世間はせまい」‥人と人とがどこかでつながっている、つなげられている。それは人と人とが支え合って生きてゆくようにとわたしたちをつくられた、神のわざに他なりません。その人とのつながりによって、わたしたちには大きな救いが与えられている、と言えるでしょう。
実はわたしもつい先日、電話やメールでしか話をしていなかった大切な人と、本当にまったく偶然、面と向かってお会いする機会をいただきました。しかも、ともすればすれ違っていてもおかしくなかった状況の中で、ほんの小さなきっかけでお互いを認識することができたのです。これはもう、神さまのわざとしか思えない!まぁすべての出会いがそうであるわけですけど。そして、この出会いからまた何かが生まれてくるはず、と強く感じました。そのようにして人とのつながりは限りなく広がってゆき、それは多くの人の『救い』へとつなげられてゆくのでしょう。
神さまの救いのわざはまさに、わたしたちの想像をはるかに超えています。そしてそんな救いのわざの真っ只中へと、わたしたちはいつも招かれている。そのことにいつも気づき、それを見逃さないようにするために、常に共に神さまに心を向け続けることができますよう、祈りたいと思います。
これは集会祭儀の「すすめのことば」として主任司祭からいただいたものを載せました
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