主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第8主日(3/2)A年(マタイ6:24〜34)


 「ごらんよ空の鳥」の箇所です。なんとも、好きなような嫌いなような‥複雑な気分にさせる箇所でもありますが‥「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」‥こう言い放つのは、まずすごいと思います。前にも書きましたが、わたしは野に咲く花が好きです。春になって道端に咲くすみれなどを見ると、本当にきれいだなぁと思います。わたしは司祭になって最初に赴任したのが長野県の松本の教会でした。信州はさすがに自然豊かで、道端に咲く花のサイズが大きいんですね。タンポポなんかも「わしゃタンポポじゃ!」という感じでドカーンと咲いてます。そんな中でこの箇所を味わうと、やはり人間のつくるどんなものも、神のおつくりになる自然の豊かさには遠く及ばない‥とつくづく感じます。それはいいんですが‥「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」‥まぁ、思い悩むほどのことはないにしても、これも以前に書きましたが、「何を飲もうか、食べようか」と考えている時がわたしは一番幸せを感じます。飲む物はたいてい決まってますけど。また女性の方などは「何を着ようか」というのは重要なことでしょうね。それを「するな」と言われると‥何か、人間の文化的側面を否定されているような気もしてしまいます。ただよく考えると、わたしたちが「食べる、飲む、着る」物のおおもとは、やはり神の恵みであることにも気付かされます。一説によると、ここで言う「野の花」とは紫のアネモネを指す、と言うんですね。当時紫の染料というのは、地中海沿岸で取れる巻貝の体液から取ったそうで、非常に希少で高価だったそうです。なので「紫の服」というのは金持ちの象徴、聖書にもそんな表現が多々出てきます。そしてソロモン王も好んで「紫の服」を着ていたとか。でもそんな、人間が苦労して染めた「紫」も、自然の花の「紫」の綺麗さには遠く及ばないのだ‥ということでしょうか。ここでも、文化そのもの自体が、神からの恵みをもとにしているということに気付かされます。マタイはこの箇所の直前に「神と富とに仕えることはできない」という格言を持ってくることで、「思い煩い」の対象が「富」であることを強調します。確かに、欲望や欲求だけに走り、すべては神の恵みであることを忘れてしまうと、それはただの「富の追求」になってしまうのかもしれません。
つねに神さまによって生かされ、計り知れない恵みをいただいていることに目を向けつつ‥せめて「さぁ今日は何食おうか‥」と楽しませてもらうくらいは、赦していただこうと思います。

マタイによる福音(マタイ6:24〜34)

 

(その時、イエスは弟子たちに言われた。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

  だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


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