主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年四旬節第4主日(3/30)A年(ヨハネ9:1,6〜9,13〜17,34〜38)


 

 「生まれつきの盲人をいやす」という箇所です。ヨハネ福音書はどこでもそうですが、一つの話がとても長く、ここも9章全体がこの出来事に関する物語となっています。また、イエスが病人をいやすといったいわゆる「奇跡物語」が、ヨハネ福音書では独特の位置付けになっていることも、今日の箇所からよくわかります。たとえばマタイ・マルコ・ルカの三つの共観福音書では、「奇跡」はそれを行うイエスの背後にあってはたらく神のわざを強調する〈しるし〉として描かれますが、ヨハネ福音書ではむしろ起きた「奇跡」を通して〈イエスがどなたであるのか〉〈そのイエスの到来によって何が始まっているのか〉が示されます。そのせいでしょうか、共観福音書の奇跡物語では、病気の人がイエスに「いやして下さい」と必死にすがり、イエスは「よろしい」と言っていやし、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。いわば癒される側の求める姿勢に焦点があてられるパターンが多いのに対し、ヨハネ福音書では今日の箇所もそうであるようにまったく一方的にいやしのわざが行われます。今日の箇所に出てくる「生まれつき目の見えない人」は、「見えるようになりたい」とさえ言わないのです。ここには、わたしたちと神との関係、あるいはわたしたちの神への向かい方の二面性が示されているようにも感じます。わたしたちは祈る時、大抵の場合「~して下さい」と願います。でもわたしたちの側が神に必死に求めることは、「求めなさい、そうすれば与えられる(マタイ7:7,ルカ11:9)」と言われているように、聖書もそれをよしとしています。他方で、わたしたちが気付かないところですでに神がはたらかれていることも少なくなく、あることをきっかけにそれに気づくこともあるでしょう。わたしたち人間が神に必死にすがる、そして神がまったく一方的にわたしたちのうちにわざを行っている‥どちらも、わたしたちの信仰の土台と言ってもいいでしょう。

現代では考えにくいことですが、聖書の時代、障害や病気は罪のなせるものとされていました。だからヨハネ9章でも、冒頭で弟子たちはイエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と聞きます。それに対してイエスは「それはこの人に神のわざが現れるためだ」と、当時の因果応報的な思想を根底からひっくり返されます。人の目からは足りない部分、不完全と見えるものを通して神ははたらかれている‥このことは、実に聖書的、福音的と言えると思います。弱い者、小さい者、貧しい者を通して神は常に働かれている。わたしたちにとっても、自分の小ささ、弱さ、足りなさや欠点という、一見マイナスに見えるものの中に、神のはたらき、わざが置かれていることに、いつも気づいてゆきたいと思います。

ヨハネによる福音 9:1-41

 (そのとき、)

  <ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

   このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。

   その兄弟ラザロが病気であった。>

(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 <弟子たちは言った。

  「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。

  「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。

 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。>

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。<ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。> マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう に。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知 しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、 命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」<マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、

あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。

    家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、>(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

  イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、 「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていま すから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言って おいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださること  を、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


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