「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」‥あまり自分で「わたしは柔和で謙遜」などとは言わないものだと思いますが‥まぁ、イエスさんがこのまま言われたかどうかは別として、「柔和」「謙遜」というこの二つの言葉がこの箇所では大きなポイントとなっています。残念ながら、日本語での「柔和」や「謙遜」という言葉からイメージするのとは少々意味が違うと言わざるを得ません。実は「柔和」「謙遜」と訳されたこの二つの言葉は、同じ語源を持つもので、もともとは「小さい」とか「貧しい」と訳されている、“身を小さくかがめた姿勢”を表す言葉だそうです。そこから「礼拝を捧げる」という意味にも訳されます。つまりは[神の前におかれた人間がとるべき態度]、あるいは[神の前におかれた自分を知ること]を表現した言葉であると言えるでしょう。そして、それこそが聖書が提示する「柔和」「謙遜」であるというわけです。神の前では自分がどんなに小さく弱い存在であるか、しかしその自分を神がどんなに愛して下さっているか‥そのことに気づく時、そのあまりのありがたさにわたしたちは自然と頭を垂れる、そんな意味を内包しているのです。そう考えれば、イエスが「わたしに学びなさい、わたしの荷は軽い」と言われるのもわかる気がします。すべて神にゆだねよ、そうすれば本当の意味で休める、安らげる‥ということなのでしょう。その意味では、わたしたちが負っている「重荷」「疲れ」とは自分自身と言ってもいいかもしれません。いつでもわたしたちは「自分が」ではなく「神が」という生き方に招かれているのです。第二朗読でパウロは「肉」と「霊」という言い方をしていますが、これは何も「肉体と精神」あるいは「感情と理性」といった二元論的な意味ではなく、自分中心に生きるのではなく、神に心を向けて生きるようにと勧めているものです。とは言うものの‥やはりわたしたちはいつもどこかで「自分」に固執してしまいます。特に自分が積み上げてきたもの、あるいは重ねてきた経験などにすがろうとする。確かに経験は役に立つし、繰り返しやってきたことだからこそうまくやれることも少なくないでしょう。しかしそこにしがみついてしまうとそこから抜け出せなくなり、「神が何を求めておられるのか」が見えなくなってしまう。やはり最後は「神にすべてゆだねる」こと、それこそがわたしたちが神に“生かされている”ということなのでしょう。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」というイエスの呼びかけに、そしてそこに込められている深いメッセージに、いつも耳を傾けたいと思います。
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