「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する人である」‥似たような逆の言い方で今日の箇所は囲い込まれていますが、ようするに「イエスを愛する=イエスの掟を守る」ということです。ここでイエスが「わたしの掟」と言われるのは、『聖書と典礼』の注書きにもあるように、13章や15章で言われている「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」を指しています。そこでイエスは「あなたがたに新しい掟を与える」とか「これがわたしの掟である」と言われていますが、実はこの「掟(ハガナ)」という言葉は、もともと旧約聖書の律法を指すものです。旧約聖書の最初の5つの書物は『モーセ五書』と呼ばれ、そこに「掟」と称される律法の条項は実に613を数えると言われますが、イエスはなんとそれをたった一つにしてしまったわけです。「律法」ももともとは、出エジプトという救いの出来事を体験したイスラエルの民の、神の救いのわざに対するリアクションでした。こんなにも自分たちは救われたのだから、わたしたちを救って下さった神さまを大切にしよう、そしてわたしたち自身も互いに救われた者どうしとして、お互いに大切にし合おう‥と、ようするに「神と人とを大切に」ということでした。それが文字になった時点で『モーセの十戒』になり、さらに様々な解釈などが加えられて律法となりました。イエスの時代は、それが様々な状況において人々の生活を圧迫するものとなっていたわけです。そんな中でイエスは「もともと律法がなぜつくられたのか、そのおおもとを見なさい」と、ようするにもとに戻されたと言えるでしょう。
何かの折に話していますが、この「愛する」という言葉もポイントです。「アガペ(愛)」の動詞形(アガパオー)で、この「アガペ」は実際に行動することを意味しています。わたしたちはどうしても日本語の「愛」「愛する」という言葉からイメージしがちですが、ギリシャ語には日本語の「愛」に相当する単語は四つもあり、中でもこの「アガペ」はもとは「神の愛」を表現する言葉です。神の愛も実に具体的なもので、単に『思う』ことではなく実際にわたしたちの間に救いのわざを行って下さる‥だからわたしたちも、それに応えて実際に行動しましょう、というわけです。こうしてみると、同じ構図が見えてきます。いつもまず神からの働きかけ、救いのわざがあり、それを感じた人間がそれに応えて行動しようとする。イエスの言葉も、それをわたしたちに示唆しているものと言えるでしょう。
ただここで「わたしがあなたがたを愛したように」と言われると、ちょっと引きますよね。イエスさんのように‥ってようするに〈命がけ〉‥いやいやとても無理、みたいな。でも「アガパオー」の意味を考えるならば、逆に小さいことならわたしたちにもできることはたくさんあるようにも思います。中高生にこの「アガペ」を説明する時、よくこんなたとえで話します。「学校で隣の席の子が嫌いだったとするでしょう。あるときその子が消しゴムを落とした。『なにこの子消しゴム落としてんの?バカじゃない?』と心で思ったとしても、しょうがないから拾ってあげたら、それはアガペしたことになる。」わたし自身、若いころ「愛する」とは〈嫌いな人を好きになる〉こととは違うということに気づいて、とても気が楽になりました。無論好きな人のために何かをするのは比較的簡単で、逆に嫌いな人のために行動するのは時にはすごく難しいかもしれません。でもだからこそ、今日の箇所でもイエスは言われるわけです。「聖霊が必ず助けてくれるよ」と。つまり、わたしたちが「愛する」ことができるのも、神のわざによるのです。大切なのはわたしたちが誰かを「愛したい」と望むこと、「愛することができますように」と願うことでしょう。
わたしたち一人一人がどれほど神に愛されているか、いつも神のはたらきの中でわたしたちが「愛する」ことが可能であることを思い起こし、だれかを常に「愛する」ことができますよう、共に祈りたいと思います。
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