主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第26主日(9/28)A年(マタイ21・28-32)


 

 この箇所はマタイだけにあるものですが、マタイにおいてここが入れられたシチュエーションがすごいんですね。いわゆる『宮清め』、イエスが神殿で大暴れした後、祭司長や長老たちが「あんた何考えてんだ!」とイエスに迫るわけですが、そんな祭司長や長老たちに「言っとくけど、あんたらが罪人というレッテルを張ってる徴税人や娼婦たちの方が、あんたたちより先に救われるよ」とイエスが言うわけです。ほんとにこのタイミングでそんなこと言ったかどうかはわかりませんが、言ったとしたらかなりの“火に油”ですよね。なぜイエスはそこまで痛烈に祭司長や長老たちを非難したのか。「後で考え直して」という言葉が二回繰り返されます。『聖書と典礼』の注書きにもありますが、これは〈メタメロマイ〉というギリシャ語で、「回心〈メタノイア〉」の派生語、つまり神へと心を向けなおすことを表す言葉です。ユダヤの宗教的・政治的指導者層は、自分たちが罪人として差別している人々が救われるという大きな神のわざを目の当たりにしながら、それでも自分たちはその神に心を向けようとしなかった。自分の方が優れている、正しい、よくやっている‥という意識をわたしたちが持ってしまう時、その自分が下に見ている人々の中にはたらく神のわざに気づけない、気づこうとしない‥同じことが、わたしたちの間でも起こってしまう可能性はいつもあります。

まぁそれにしても、このたとえはないなぁ‥といつも読むたびに思ってしまいます。「行く」って言ったら行けよ、みたいな。前にも言いましたけど、わたしはウソが嫌いなので、自分がいったん口に出したことは死んでも実行してやる‥などと思ってしまいます。ただよくよく反省してみると、わたしたちは実際に口にしたことをちゃんと行いとして実践しているだろうかと振り返らざるを得ないこともあります。例えば、主日のミサごとにわたしたちは『信仰宣言』をします。「信じます」と連呼するわけですが、そしてもちろん心では本当にそう信じているわけですが、実際に口だけではなくその宣言した信仰を『生きて』いるかと言われたら、やはりちょっと反省すべき面があるのではないでしょうか。そして『主の祈り』。主の祈りを唱えるたびに「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるします」と言ってるわけですが、果たして本当にわたしたちは「人をゆるして」いるでしょうか。人をゆるすとは、実はそう簡単なことではありません。特に自分が誰かからひどいことをされたりしたら、いったんはその人を「ゆるした」と思っていても、何かの折にされたことを思い出したりすると、また新たな怒りがふつふつと湧きあがったりしてしまう‥。実は、厳密にはわたしたちは自力で人をゆるすことなどできないのではないか、とも思ってしまいます。そして、唯一それを可能にして下さるのは神さまです。もっと言えば、すべての善い『行い』は神さまによってのみ、可能となる。その神に心を向けなおせ、と言われてるんだと思います。それによって、自分ばかりでなく様々な人の中で神さまがはたらかれているそのわざに、気づくことができる。

「口で言うのは簡単」とよく言いますが、本当にそうですね。また「不言実行」でありたいといつも思います。わたしたちが毎週「宣言」している信仰を、実際に「生きる」ことができるように、神さまがそれを可能にして下さるように、心を合わせて祈りたいと思います。


 

マタイによる福音 21・28−32

そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日(きょう)、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦(しょうふ)たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21・ 28-32)


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