11月22日年間第33主日、主任司祭がお留守のため、
百合丘共同体は「ミサのない主日の集会祭儀」を行いました。
以下は、その際の主任司祭からの「すすめのことば」です。
今日は「王であるキリスト」の祭日、年間最後の主日です。この「キリストの王職」という言葉には、特別の意味があります。御存知かと思いますが、「キリスト」というギリシャ語はヘブライ語で「メシア」、もともとは“油注がれた者”という意味の言葉です。
旧約では、神から特別な使命を与えられた人には、そのしるしとして頭から油が注がれました。それが次第に神から選ばれる「王」のしるしとなり、「メシア」は王の意味でも使われるようになりました。しかしイスラエル王国が滅んだあと、旧約の末期になると、神と人とを結ぶために神から使わされる「救い主」の意味でも使われるようになっていきます。
旧約においてイスラエルの民は、エジプトを脱出した後、はじめは人間の王を持とうとはしませんでした。それは「神こそが王」という信仰があったからで、人間が人間の上に君臨すべきではないと考えたからです。しかしここでいう「王」とは人間の王と違い、神が御自分の造られたいのちをこよなく愛し、生かして下さる方であることをあらわすものとして使われた言葉でした。聖書がよく提示する「神の国」という言葉も、もとの直訳では“神の支配”という意味で、ここでいう「支配」も上に君臨するのではなく、神はいつでも下から支えわたしたちを守って下さる、ということへの表現でした。
例えば創世記で神が人間を造られた時、「地にあるすべてのものを支配させよう」と言われますが、これも被造物を人間が自由にしていいという意味ではなく、神が「支配」されるように、人間もすべての被造物を「こよなく愛し支えて生かしてゆくように」という呼びかけなのです。考えてみれば日本語の「支配」も“支え配る”と書くので、本当はそのような意味を持つ言葉かな‥と思いましたが、調べてみるとどうやら“取り締まる”という意味しかないようです。せっかくこの字なのに‥と思ってしまいますが。
いずれにしても聖書における「神こそが王」「神の支配」という言葉には、特別な意味が込められている、ということがわかるでしょう。そしてキリスト(メシア)であるイエスにこの「王」というタイトルがつけられる時も、その意味でのことに他なりません。イエスは父である神が「すべてのいのちをこよなく愛し、生かし、支えて下さる」方であることを御自分の命をもって示されました。そして御自身も「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われ、一番小さな人々と共に歩まれました。それが言わば聖書的な「王であるキリスト」であるのです。
他方で、教会はわたしたちもまた、おもに堅信の秘跡を通して「キリストの王職にあずかっている」と位置付けます。イエスは「あなたがたの中で一番偉くなりたい者は、一番最後になり、皆に仕える者になりなさい」と言われました。「仕える者」になられたキリストに倣って、わたしたちもまた人々に「仕える者」となること、それこそが「キリストの王職にあずかる」ことに他ならないのです。そして創世記の言葉を思い起こすならば、わたしたちは被造物すべてに「仕えなさい」と言われている、とも言えるでしょう。
「王であるキリスト」の祭日を祝う中で、わたしたちもそのようなキリストにならって歩んでゆくことができますよう、共に祈りたいと思います。
|