主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第32主日B年(2015.11.8)

[マルコ12:38〜44




  『やもめの献金』というこの箇所を読むたびに、物や金に人の思いが込められる時、それを通して神さまがいつも働かれているということに目が向きます。マザー・テレサの有名な言葉もありますね。「大事なのは、どれだけやったかでなく、どれだけ心を込めたかです」‥確かに、とも思うのですが‥その反面どこかで「そうは言ってもやっぱ量だろ」と思ってしまう自分もいたりします。でもやはりそうでない、と気づかされたのは、2011年の震災の後でした。

御存知のように教区の青年たちが震災直後に立ち上げた peace be with You の活動をずっと一緒にやっているのですが、青年たちは集まったお金の使い道にずっと慎重でした。わたしなんかは、もっとバーッと使っちゃえ!などと思っていたのですが、彼らはあくまでも、長く支援できるように、少しづつ、そして顔と顔とが合った支援先にと大切に使っていきました。その結果‥神さまがそれを通して、人と人とをつないで下さるということに気付かされました。なるほど、そういうことだったんだ‥と今更のように思いました。そしてその〈つながり〉は無限に広がっていくのです。「誰かのために」という思いを込めて、「誰かと何かを分かち合おう」とする時、そこで神さまが必ず何かをなさって下さる。聖書では「物や金」というのは何かと否定的に捉えられがちですが、その「物や金」を通してさえも、神さまは働いておられる‥そのことを多くの方と分かち合えたらと思います。

物、というと思い出すことですが、というかなにかと語り草にしていることですが、わたしは右手の薬指にロザリオ指輪をしています。買ったのは神学生の頃で、イグナチオ教会がまだ古い建物の頃、入り口にその当時も女子パウロ会の売店があって、そこで見つけました。おっカッコいいぜ‥と思い、はじめは買うかどうか迷っていたのですが、ちょっとはめてみようと思ってはめたらぴったりで抜けなくなり‥どうにも抜けないので仕方なく指にはめたままレジに行って「すみませんシスター、これ下さい」と言ったら「7,500円です」と言われ、ひえ~‥と思いつつ買っちゃった次第です。今でも、石鹸を付けないと抜けないので、いつもはめたままです。今ではもう自分の体の一部みたいになってます。ただその時のシスターとの会話が忘れられません。「神学生の方?」「はい、横浜教区です」「そう、教区司祭は大変よ。修道会の神父さんたちは修道院があるからね。でも教区の神父さんたちはそれぞれいつも一人だから。頑張ってね、お祈りしてますよ」

その時ははぁ、そういうもんかと思いましたが、司祭になって本当にそうだな、と実感しました。この指輪のことを思い出すたびにそのシスターのことも思い出し、そうした方々の祈りに支えられているんだな、と改めて感謝したい気持ちになります。わたしたちは、そんな風に「者」や「金」に込められた沢山の方々の思いに支えられて歩んでいるんですよね。そのようにいつも誰かに支えられつつ、わたしたちの側も誰かを支えながら、共に歩んでゆければと思います。

                                鈴木 真


マルコによる福音 (12・38〜44)

 (そのとき、)

  ≪イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。

彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、 

広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。

このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」≫

  イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


「ゆりがおか」トップページへ戻る