「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
この箇所を読むと、思い出す言葉があります。もうずいぶん昔に読んだ漫画なんですが、題名も覚えてません。主人公は獣医の男性で、あるときペットの犬が死んで悲しんでる少年に、こんなことを言うんですね。「いのちと死とは切っても切れないもの。生物は進化の過程において自ら『死』という概念を選んだとも言える。生物がまだ単細胞だった時は、永遠に細胞分裂を繰り返し、自分のコピー、つまりクローンを作っていた。その段階では厳密には『死』は存在しなかった。しかし生物は遺伝子を取り入れることであらゆる環境の中で生きてゆけるように、自ら『死』んで、次の世代にいのちを受け継いでゆく道を選んだ。だから死といのちとは一つ、死ぬことは生きることであり、生きることは死ぬことだ。死があるからこそいのちがつながってゆく。そして生きるものはいつか必ず死ぬのだ。親しいいのちが死ぬことは悲しい。泣くしかない。でもだから、その『死』はとても尊いものなのだ。」なるほど、そういう説明もできるんだな‥と思いました。
今年もキリストの十字架を見つめる季節になりました。ある意味で、イエスが十字架上で亡くなられたからこそ、今のわたしたちがいるとも言えます。あたかも生物が子孫を連綿と残し続けるように、わたしたちキリスト者もまた、〈キリストのいのち〉を受け継ぎ続けて来たのでしょう。カトリック新聞に、京都の柳本師が「わたしたちはキリストのDNAを受け継いでいる」と書かれていました。なるほど、その通りですね。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」ちなみにここで「自分の命」と訳された「命」はこの世で肉体を維持する生命を表すブシケーという言葉で、「永遠の命」の「命」はそれとは違うゾーエという単語、すなわち“神との結びつきにおいて生かされるいのち、この世を超えたいのち”という意味の言葉が使われているそうです。日本語訳ではわかりませんが。その意味ではわたしたちはこの世を超えた「いのち」を受け継いでいる、そしてまたつなぎ続けてゆく、と言えるかもしれません。
今年は長崎での信徒発見から150年です。これもまた、キリストのいのちが受け継がれ続けて来たひとつのしるしでしょう。今年もキリストの受難と復活の記念の時を迎え、改めてこのわたしたちにとっての大きな恵に心を向けたいと思います。
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