主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


復活節第6主日B年(5/10)
[ヨハネ15・9〜17]


 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」‥有名な箇所です。何かの折に話すことですが、ここで「愛・愛する」と訳されているのは〈アガペ・アガパオー〉という特別な言葉です。新約聖書は古いギリシャ語で書かれたそうですが、実は日本語の「愛」に相当するギリシャ語は四つもあるそうです。まずは「ステルゴ」、これは動物にもある〈本能的な愛〉とされます。例えば、親が子を守るような。次はよく聞く言葉でもある「エロス」。これは自己の欲求、欲望としての愛。なので性的な愛もここに含まれます。三つめは「フィレオ」、これは感情としての愛を表す言葉です。そして、四つめが「アガペ」で、一部の例外を除いて新約聖書で「愛」と訳される時はほぼこの言葉が使われています。「アガペ」は言わば〈行動としての愛〉、自己愛を含まない純粋な愛とも言われます。「愛」の概念を四つに分けるなんて、古代ギリシャ人の思考には本当に驚かされますが、〈ステルゴ・エロス・フィレオ〉が人間的な「愛」を表現したものであるの対し、〈アガペ〉は神の愛が原型となっています。そしてそれは、具体的・実際的な行動である、というわけです。よく誤解されがちですが、わたしたちは「神さまはいつも天からわたしたちのことを見守っていて下さる」とイメージしがちです。でも実は違っていて、神はわたしたちのうちに具体的なわざを行う方、わたしたちのうちに実際にはたらかれる方です。そして、それが「神の愛」に他なりません。子供や青年たちがよく「‥神さま、見守っていて下さい」と祈りますが、そんなときいつも‥ん?と思ってしまいます。神さまは、見守るだけじゃないんだがなぁ‥と。神は圧倒的な力でわたしたちのうちに、常にはたらいておられる。その「神の愛」に触れるならば、わたしたちにも何かができる‥ということに気づかされます。ただイエスが「わたしが愛したように」などと言われると、ん‥無理。とか思ってしまいます。これは実際にイエスが言われた言葉というよりも、明らかに教会がイエスの十字架を意識した言葉で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言わば〈アガペ〉の究極を示すことで、御子を世につかわされた神の愛の大きさを提示すると共に、殉教への覚悟も促している、といったところでしょう。そこまで言われると、いやぁ‥と思ってしまいますが、逆にどんな小さなことでもいいならと考えれば、わたしたちは確かに自己愛を含まない愛を実践できることにも気づかされます。そして実際、色々なところですでに実践していることも。ちょっとした、誰かのために何かをという行為、自然な誰かに対する手助け、ボランティアなど。それはすべて、〈アガペ〉につながることなのです。聖書の説く「愛」が、日本語の「愛」のイメージとは違うことを、まずわたしたちは意識すべきでしょう。そして、わたしたちにとっては大きすぎる「神の愛」に常に目を向けつつ、わたしたちも小さいことからでも、少しづつでも、〈アガペ〉を実践し続けてゆくことができますよう、共に祈りたいと思います。



(ヨハネによる福音 15・9〜17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


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