主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第25主日B年(2015.9.20)

[マルコ9:30〜37




 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」

ここで「仕える者」と訳された言葉はギリシャ語で〈ディアコノス〉、もとは“食卓で給仕する者”を意味する言葉だそうです。場合によっては僕や奴隷も意味しました。要するに、無償で働くということです。教会は早い段階から、「奉仕者」を指す言葉としてこれが使われ、のちに三つの職制(今日では「助祭・司祭・司教」)が定まると、その根底に〈ディアコノス〉つまり「仕える者」という要素があると位置付けられました。今日では〈ディアコノス〉を「助祭」と訳しています(もともとは〈執事〉と言われていたようです〉。今でも司祭になるにはその前に少なくとも半年間助祭として働くことが義務付けられており、日本の神学校では最終学年の一年間、助祭として奉仕することになっています。カトリックは何かと五感に訴えることが好きなので、その昔(と言ってもどれだけ昔なのかはわかりませんが)は三つの職制の根底に助祭職があることを体感するために、ミサなどの時司祭はまず助祭の祭服を着てから司祭の祭服を着たそうです。司教になると三つ重ねて着たそうで、まるで十二単ですよね。

「仕える」とは、今日のわたしたちにとって何をすることなのか、よく考えます。現代的に言えば〈奉仕する〉ことかな‥とも感じます。聖書で言う「愛(アガペ)」は実際に相手のために行動することを意味する言葉ですが、こちらも〈奉仕〉に近いのかなとも思い、両者がつながるようにも思います。要するに、人のために行動すること。「誰かのために何かをしよう」とわたしたちはいつも思っているし、また色々なことを実際にやっていることでしょう。ただここで難しいのは、昔の「僕」であれば言われることをやればいいわけですが、「奉仕」となるとしばしば“自分の思い”がそこに入り込みます。その結果、本当に求められていることとすれ違ってしまうことも。自分は良かれと思ってやったことが、実は有難迷惑だったり、トラブルのもとになってしまったり‥ということも少なくないでしょう。大切なのは「自分の思い」ではなく「神さまの思い」が何なのか、どこにあるのかを考えることだろうと思いますが、それもそんなに口で言うほど簡単ではありませんよね。そう考えると、まずはただ誰かの「傍ら居る」ことが大切なのかもしれません。そしてそこで必要なことは神さまがいつも示して下さる‥と信じたいです。

キリストに従って、すべての人に「仕える者」となることができますよう、いつも聖霊の助けを願いたいと思います。


                                鈴木 真


マルコによる福音 9・30〜37)

(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


「ゆりがおか」トップページへ戻る