有名な『善いサマリア人』の箇所です。しかしここは有名な割に、わたしたちはこの箇所が本当に伝えようとしていることをくみ取れていないように感じます。困っている人は助けましょう、「自分にとって隣人とは」でしなく、だれにでも自分から近づいて行けば「隣人」になるのですよ。いやそれはわかっちゃいるんだが‥そしてわたしたちは「もし自分だったら」とつい考えます。つまり、自分が道端に倒れている人に遭遇したら、と。そしてその結果いや〜とても助けられないな‥と思い、また実際に助けられなかったことなどを思い出し(わたしにもその経験があります)、自分を責める。わかっちゃいるんだけど‥と悪循環に陥るわけです。実はその悪循環を打開する一つのキーワードがこの箇所にあるんです。「見て、憐れに思い‥」。
この「憐れに思い」と訳されたのはスプランクニゾマイというギリシャ語で、“はらわたがよじれるようなおもい”という意味だそうです。そしてこの動詞は福音書でイエスか神が主語の時にしか使われないもの、つまり神が一つひとつのいのちに対して持っておられる思いを表現した言葉なのです。そしてこの『善いサマリア人』の箇所だけが、唯一の例外となっています。ではなぜイエスはここでわざわざこの「憐れに思い」という言葉を使ったのか。それは何より神の愛を思い起こさせるため、どれだけ自分が神に愛されているかに改めて目を向けさせるためです。すると、気づきます。「もし自分だったら」の自分の置き場所を間違ってたんじゃないか、と。もし自分が強盗に襲われた人だったら、と考えてみる。「半殺し」にされたのだから当然意識を失ってるでしょう。気が付いたら見知らぬところに寝かされている。そこは宿屋で、あらわれた宿屋の主人が「ああ、あんた気がついたね、よかった。あんた強盗に襲われてみんな取られちゃったんだよ。でも大丈夫、サマリアの人があんたを助けてここまで運んでくれて、お金もたっぷり置いて行ってくれたから。」‥と言われたら!ということです。もし自分だったら、なんとしてもその助けてくれた人を探し出し、たとえそれがどんな人だってお礼を言いたいと思うし、ましてやそんな体験をした自分が今度同じような目にあった人に遭遇したら。そりゃ一も二もなく助けるでしょう、と思います。
そしてだからこそ、イエスの最後の言葉が響きます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。わたしたちはいつも誰かに支えられ、誰かに助けられています。それは神に愛されていることに気付く入り口。いつもその神の愛がスタート地点なのです。もともと律法もそうでした。出エジプトという神の大きな救いのわざを体験したイスラエルの民が、こんなにも救われたのだから、救って下さった神さまを大切に、そして救われた者どうしお互いに大切にし合おう、というのがスタートだったのです。ところがそれがあまりにも多くの掟となってしまったので、「‥で、どれが一番大事?」という問いになっちゃうわけです。そしてイエスはそれに対して言わば当たり前の答えを出されます。「だから、神と人とを大切に、だよ」と。わたしたちはまず、自分がどれだけ神に愛され、そして人に支えられ助けられているかに思いを馳せる必要があります。そしてそのことに気付いた時、自分もその頂いた愛を誰かとわかち合おう、と行動に促される。神がまず先に愛して下さっていることにいつも目を向けることができるよう、共に祈りましょう。
鈴木 真
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