主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第20主日C年(2016.8.14)

[ルカ12:49〜53


8月14日年間第33主日、主任司祭がお留守のため、

百合丘共同体は「ミサのない主日の集会祭儀」を行いました。

以下は、その際の主任司祭からの「すすめのことば」です。


 

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。・・むしろ分裂だ」イエスらしからぬ言葉に、この箇所を読むたびにある種の戸惑いを感じざるを得ません。

マタイにも平行箇所があって、マタイは「剣をもたらすために」としますが、ルカが「火を投ずる」としたのは、特に聖霊の働きを意識してのことだと言われています。ひとつ感じることは、イエスのメッセージに中立はない、ということです。福音のものさしによって生きるのか否か、イエスを受け入れるか否か。わたしたちは往々にしてその辺の判断をあいまいにしたくなります。無論イエスに従いたいけれど・・今はちょっと・・とか、目の前のことが片付いたら・・とか条件を付けたくなってしまいがちです。しかし、イエスの呼びかけはまさに今、「わたしに従いなさい(9:59)」「行って、あなたも同じようにしなさい(10:37)」と、わたしたちに臨んでいるのです。その呼びかけに今、わたしたちが従おうとする時、時には見せかけの平和に分裂をもたらす結果にもなるかもしれません。

イエスの時代のパレスチナは、完全なる父系社会で、父親の言うことは絶対でした。そんな中でイエスに従おうとしたキリスト者は、まさに家族との分裂を体験したことでしょう。

わたしたちは今年も平和旬間を迎え、改めて「平和」ということについて見つめ、そして神の平和の道具として働く決意を新たにする時を迎えています。そんな中にあって、今の日本社会の中で、そして世界情勢の中で、イエスに従おうとするわたしたちは「NO」と言うべきことにははっきり「NO」と言うように促されているのかもしれません。たとえそれが見せかけの平和に分裂をもたらす結果になったとしても。

わたしたちにとって何をすることがイエスに従うことになるのか、それを判断するために必要な知恵を、そして行動するための勇気と力を、神が与えてくださいますよう、聖霊の助けを共に願いたいと思います。

                                          鈴木 真

                               


(ルカ 12:49-53 )

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、

母は娘と、娘は母と、

しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

対立して分かれる。」


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