実は先日、ちょっと泣かされたことがありました。何かの折にお話ししているように、わたしは横浜雙葉というカトリックの学校で長年チャプレン(学校の専属司祭)をしていますが、先々週の金曜日、高校3年生の卒業ミサがありました。横浜雙葉では毎年1月の後半に、高3の学年だけで、山手教会の聖堂をお借りして卒業ミサをしています。そしてなぜだか知りませんが、卒業式は毎年決まって3月1日。しかし今年はたまたま3/1が灰の水曜日で、灰の水曜は毎年小学校の方でミサをしているので、昨年からこの学年の卒業式は出られないなぁ‥と思っていました。
でもこの学年は何かと苦労した学年で、中1に入学したのが2011年の震災直後、学年行事が例年のようにできなかったり、また高2の修学旅行の時は不運にも旅先でノロウィルスに感染したり‥卒業式に出られないなら卒業ミサで何か贈ってあげたい、とずっと思っていました。そこで昨年の11月、イグナチオ教会に行く用事があったので、隣の女子パウロの売店で気に入った御絵を見つけて200部注文し、そして裏に贈る言葉とサインを印刷して配ることにしました。
よし、これでちょいと泣かしてやるぜ‥しめしめと思って当日を迎えたところ、ミサ前に校長が「なんか生徒たちが神父さんに感謝の言葉を送りたいそうだから、ミサの終わりにちょっとしたセレモニーが入るから」と言われ、はぁ、とあまり考えずにミサを始めました。ところが拝領祈願の後、とりあえず席に着くと、司会をやっていた生徒が「それではこれから、鈴木真神父様の銀祝のお祝いを致します」とか言うわけです。はぁ?そんなの聞いてないぞと思っていたら、3人の生徒がツツと前に出てきて、一人の子がお祝いの言葉と中1からのわたしとの思い出をとうとうと述べ、そして二人目の子から大きな花束をもらい‥一番驚いたのは3人目の子から手渡された物で、なんとクラスごとに全員の生徒が寄せ書きしてくれた色紙4枚でした。なんだこのサプライズ!勘弁してくれよ‥と祝うつもりが祝われてしまい、また泣かすつもりが泣かされてしまいました。
ミサの後校長からは「神父さん、見事に返り討ちにあったね」と言われる始末。しかし、それはそれは嬉しかったですね。チャプレン冥利に尽きると言うか。人の思いが伝わる時、また自分の人への思いが伝わった時、そこに必ず神さまのはたらきがあるなぁ‥と思いました。まぁチャプレンを長くやってるからですが、最近先生たちから「神父さんは我々教師の気持ちもわかっててくれるし、その傍ら生徒の立場にも立ってくれる。言わば教師と生徒の間にいてくれるので助かる」と言われます。これもわたしが何かやってるわけではなく、神さまがわたしをそういう位置に立たせてる、そのようにわたしを使って下さっているんだなぁと強く感じます。まさに神さまのはたらきがそこにある、と。
今日の福音の箇所は『山上の説教』の冒頭の有名な箇所ですが、実は注意しなければいけない言葉が満載のところでもあります。その一つが「天の国」。3節と10節は「天の国はその人たちのもの」という言葉で囲い込まれています。「天の国」と聞くとどうしてもわたしたちは死んだ後に行く「天国」をイメージしてしまいます。そしてそのイメージのままこの箇所を読むと「いいことした人は(死んだ後)天国に行けるよ」的なメッセージとしてとらえがちですが、残念ながらそれは全く違います。マタイだけが「天の国」という表現を使います(マタイは「神の」という表現がおこがましいので全部「天の」という言葉に変えています)が、もとの言葉は「神の国(バシレイア)」で、直訳すると“神の支配”。要するに、神さまのわざがはたらいていることを表す言葉です。つまりここでのこのメッセージは〈神に心を向ける人は、神がわたしたちのうちにあってはたらかれていることに気付く〉というものに他なりません。
他方「神のわざ」というと、とかくわたしたちは自分にとってプラスのこと、つまり嬉しいことやありがたいことの中で感じる、というか感じたい、と思ってしまいますが、時にはマイナスのこと、自分にとって都合の悪いことや悲しいこと、苦しいことの中ではたらかれている神のわざも少なくないのだと思います。そんな時、わたしたちは決まって神さまに文句を言ったり助けを求めたり‥でも単に自分の失敗で神さまにも文句が言えない時は、ただただ〈まいったなぁ‥〉とへこんだりするわけですが、実はそんなへこんでる「わたし」を通してさえ、神さまは何かをなさっている。神さまのわざ、はたらきとはそのようなものなんだと思います。
意外なところで、意外な形ではたらかれている神さまのわざ、それに日々気づいていくことができますよう、祈りたいと思います。
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