『徴税人ザアカイ』の箇所です。ルカだけにしか出てこない箇所ですが、その割に有名な箇所でしょう。
「徴税人」という人たちは、聖書の中でもイエスの時代にしか出てきません。当時広い範囲で世を支配していたローマ帝国は、被支配地域に「人頭税」を課していました。それを徴収するために、言わば町のならず者を雇ったんですね。徴税権というものを売りに出し、徴税人たちがいったんそれを買うと、あとは金を取り放題。誰も正確な税額を知らなかった、と言います。人々からは忌み嫌われつつも、暴力的に金を取るので恐れられてもいました。当時徴税人は、裁判の証人席にはつけなかったそうです。まともな仕事でない、ということでしょうね。福音書でも徴税人は「罪人」の筆頭格として描かれています。
10年ほど前に『マリア』という映画が上映されて、ちょっと話題になりました。イエスの降誕物語ですが、それをマリアとヨセフの視点から描いているものです。その映画の中での徴税人の描き方が、なかなかよくできてるなと思いました。マリアの住むナザレに、ある日徴税人たちが馬を飛ばしてやって来ます。人々は「徴税人が来たぞ!」と叫び、徴税人は村の人々に「全員外に出て並べ!」と叫ぶ。一人ひとりに「皇帝に○○シェケル、ヘロデ王に○○シェケル、神殿に○○シェケル。払え」とか言うわけです。「お願いです、来月まで待って下さい」と言われると、笑いながら「皇帝は来月まで待ってはくれんなぁ」とか言って、その家の娘やロバを持っていっちゃう。いやぁ、ヤクザだなぁ‥という感じ。実際、今でいえばヤクザ屋さんのような存在だったのでしょう。今日出てくるザアカイはその頭ですから、言わばヤクザの大親分。この箇所を読むたびに思うんですが、今なら間違いなく新聞沙汰でしょうね。一面トップで三段ブチ抜き、『噂の預言者イエス、暴力団組長宅に滞在』って感じで。
福音書が描く、イエスの人に対する向かい方は、その人をただ「その人」として見る、ということだと思います。その人の言わば外側の要素、つまり性別や年齢、社会的地位や職業など、一切問題にしない。これはわたしたち人間には難しいですね。わたしたちが初対面の人に向かう時、当然自分と同性か異性か、年齢が上か下かで意識が変わるでしょうし、何よりもわたしたちが問題にするのは「その人が何をしている人か、または何をしてきた人か」ということでしょう。しかしイエスはそういったことを認識しながらも、一切問題にしない。ただ「ありのままのあなた」と受け止める。これはまさに、神の無条件で無限の愛を体現している、と言っていいでしょう。逆に言うなら、神はイエスというお方を通して、その無限で無条件の愛を示しておられる。我々人間には難しいですが、しかし神はそのようにわたしたちを愛して下さる、ということです。その神の愛に触れる時、あるいは気付く時、わたしたち人間の側に何かが起きます。「こんなにも愛されているのなら、わたしも何かしなくちゃ」というように。かつて「律法」もそのようにして生まれました。「出エジプト」という大きな救いの出来事を体験したイスラエルの民は、「こんなにも救われたのだから、救って下さった神を大切にしよう、そして救われた者どうし、お互いに大切にし合おう」と、言わばリアクションとしての行動を考えました。でも御存知の通り、旧約聖書の最初の五つの書物が編集された時、それは613項もの「掟」となってしまった。あくまでまず「神の愛」が先行しているのに、それを忘れるとただ決まりごとが人を縛ることになってしまうのです。
今年は『いつくしみの特別聖年』、もうすぐ終わりが近づきました。教皇様は「神のいつくしみを思い起こし、様々な実行を」と言われますが、わたしたちにとって一番大切なのは、まずは神の「限りないいつくしみ」に気付き、自分が何よりも一方的に愛されていることに目を向けることでしょう。そんな神の無条件で無限の愛に包まれていることを、いつも感じて歩みたいと思います。
鈴木 真
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