「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に‥」様々な解釈を生んだ言葉でもありますが、多くの聖書学者は、悪意ある質問にイエスもまともに答えなかったのではないか‥と言っています。ただ今日は、「神のものは神に」という言葉が頭に残りました。
先週は遅れて年の黙想に軽井沢に行って来ました。いや〜寒かった?夏の終わりにひいた風邪がようやく治ったのに、また風邪をひいてしましました。
今回講師にお招きしたのはカルメル会の中川神父さんという方で、霊性神学の専門家です。様々な聖書の箇所を、神とわたしたちとの関係という視点から改めて読み直す、という内容の講話で、なかなか興味深いものでした。
中でも少々驚いたのは、モーセの十戒(出エジプト20:1~17)についての話でした。御存知のように「十戒(もとの言葉は単に“十の言葉”という意味だそうです)」とは、出エジプトという大きな救いの出来事を体験したイスラエルの民が、こんなにも救われたのだから、救って下さった神を大切にしよう、そして救われた者どうしとしてわたしたちもお互いに大切にし合おう、と、言わば「神と人とを大切に」という精神を根幹として、それを言葉にしたものです。
それ故に前半は神に関すること、そして後半は人に関することという内容になっていますが、問題は第5項、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という箇所です。元来はここからが「人」に関する内容とされてきました。しかし、ここで「父母」と訳されている言葉は、元は“親権を持つ者”という意味だそうで、場合によっては神を指すものでもあった、というのです。そのことから、最近数人の聖書学者が、実はここまでが「神」の内容に属するのではないか、と言っているのだそうです。つまり、これは「神」を指す言葉であると。要するにこの文章は「神にふさわしい向かい方をしなさい」という意味、それゆえに後文「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」が付けられているわけです。確かに第6項(13~17)以降には、このような後文が付けられていないことにも気づかされます。
ほう‥と思いました。十戒全体が今までと違って読めるような気がして、より深まった思いがしました。〈すべては神が造られた。すべては神のもの。その神が、これほどまでにあなたを愛している。だからあなたも、神が愛されている他の人々を大切にしなさい〉。なるほど、「すべては神のもの」ということが、改めて腑に落ちた感じがしました。
しかし同時に「すべては神のもの」‥とわかってはいますが、人間はいつも「自分のものにしたい」という欲望を持ってしまうんだなぁ、と反省させられます。ドラえもんのジャイアンではないですが「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」と、あくなき所有欲が、人間を神から離してしまうのかもしれません。わたしたちはまぁそんなに貪欲ではない‥と思っていますが、どこかで「これは自分のものにしておきたい」としてしまう部分があるのではないでしょうか。わたしが神学校に入った時、生き甲斐は合唱でした。神学校に入ったら歌えなくなるのでは‥ととても不安になりましたが、あとから考えれば、歌うことのできる喉も、また歌う機会も、すべては神から与えられていたものだということに気付きました。また司祭になってからも、教会を変わるたびに今まで続けていたことができなくなるのでは‥と不安になります。やはりどこかで「これは自分のもの」にしておきたいところがあるのでしょう。
すべてか神のもの、神に与えられているもの。「神のものは神に」という言葉を、いつも思い出したいと思います。
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