エマオに向かう弟子たちに復活のキリストが現れる‥この話はマルコの最後にちょっと触れられていますが、ここまで詳しく書くのはルカだけです。
そもそもこんな大変な時に、なんでこの二人の弟子は旅をしているのか?‥要するに逃げたんですね。「うちの先生十字架にかけられちゃうし、おまけに墓がからっぽだったとか言ってるし‥もうわけわかんない、逃げよう」って感じで。でもそんな二人に、イエスは寄り添って下さる。先週のヨハネの箇所もそうでしたが、弟子たちにとって復活という体験は、師を裏切ってしまった自分たちが赦されるという体験であったと同時に、〈こんな自分たちにイエスが寄り添っていて下さる〉という体験でもありました。だから、この後のところ、弟子たちが集まっている場に再びイエスが現れて言うわけです。「あなたがたはこれらのことの証人となる。(24:48)」「証人となれ」とは言われていません。今日の第一朗読の使徒言行録でも、ペトロが言います。「わたしたちは皆、そのことの証人です。」ここでも〈証人になれました〉とは言いません。弟子たちはあるがままの自分の存在自体が「証し」となっている、つまり〈こんなわたしたちを通して、神がはたらかれている〉ことを実感していたのです。やはり、「宣教」とは何よりも神が主体のわざ、わたしたちはその道具であることがよくわかります。
実は先日、ある友人と酒の席で言い合いになりました。その友人がこう言ったんですね。「最近教会は司牧ばかりしていて宣教してない。それじゃ『宣教司牧』になってない」そこでわたしは言い返しました。「いや、宣教は神さまのわざでしょ」すると「あんたら司祭がそんなこと言ってるからダメなんだ」と言われたので、「人間が宣教できると思っているところにおごりがある」と返し‥結局平行線で終わってしまいました。まぁ確かに教会にいれば居心地がいいから、教会の中にばっかりいる、とそれは足りない‥と感じることもあるかもしれませんが、わたしたちは週の大半は「社会」で生きています。働いていようといまいと、わたしたちが普段いる場は「社会」です。そのわたしたちを通して、神がはたらかれていると思うんですよね。
ちなみに、先週お話しした石垣のすみれ、昨日見たら枯れてました。(注:前の週に話したこと‥この季節にわたしはひそかな楽しみがあって、それは弘法の松公園側の石垣の間から咲くすみれの花。こんな小さいすみれが、石の間から力強く咲いている姿に神の大きなわざ、目に見えていること以上のものを感じる、と話した)いや、すごいですよね。毎年とても短い間だけ咲くすみれの花、また来年わたしたちの目を楽しませてくれるその自然の力強さに、やはり神のわざを感じます。わたしたちの身の回りの色々なところに、その神のわざのしるしが置かれてるんですね。
今年も復活節を過ごす中で、わたしたち一人ひとりを通してはたらいておられる神のわざにお互い気付いてゆけますよう、共に祈りたいと思います。