「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」‥新共同訳はこのように訳しますが、実は議論の的となっているところです。このように訳されると、弟子たちのうち何人かが「本当にイエスさんか?」と疑ったというようなイメージを持ってしまいますが、実はちょっと違うようです。キーワードは二つ、まずは「ひれ伏す」。これは“真の礼拝を捧げる”という意味の言葉で、つまり目の前にいるお方が誰だかわかっている人間がとる態度を表すものです。
もう一つは「疑う(ディスタゾー)」で、これは“心が二つの方向に向かい分裂している状態”を表す言葉だそうです。この「ディスタゾー」は新約聖書ではここの他にもう一ヶ所だけ使われています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「イエスが湖の上を歩く」という不思議な記事を載せていますが、ある時弟子たちが船に乗り込んでいると、イエスが湖の上を歩いて近づいて来た。「幽霊だ!」と弟子たちが騒ぐんですが、イエスが「恐れることはない。わたしだ」と言って船に乗り込んだ‥というエピソード。マルコとルカはそこで終わりますが、マタイだけはそれにまた不思議な話が付けられていて、湖を歩くイエスにペトロが「先生、あなたでしたらわたしもそちらに行かせて下さい」というんですね。そしてイエスが「よろしい、来なさい 」というと、なんとペトロも湖の上を歩きだす。ところが途中で自分の足元が心配になってそこに目をやると、とたんに沈みそうになる。そんなペトロをイエスは引き上げ、言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。イエスの方だけを見つめていれば歩けたのに、つい自分の足元にも目がいってしまったんですね。それが「ディスタゾー」という状態です。
そのように考えていくと、このマタイの締めくくりの箇所では弟子たち全体が「ディスタゾー」の状態に置かれていた、とも考えられます。つまり、復活のキリストに出会っているのに、完全に従い切れない弱さを抱えている。でもそんな弟子たちを、イエスは全く咎めずに宣教へと派遣するんです。これもまた、まさに弟子たちにとっての【復活体験】と言えるのではないでしょうか。師を見捨てて逃げた、弱さだらけの自分たちが丸ごと派遣された、という。
そして最後のイエスの言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」‥すごい言葉だといつも思います。わたしたちは自分が生きているうちには世の終わりは来ないだろうとどこかで思っていますが、実際には「世の終わり」とはいつどのような形で来るかはわかりませんよね。しかし少なくともこれを言われた弟子たちは2000年前にもうこの世を去っている。つまり、この世を去った後にも、イエスは共にいて下さるということです。わたしたちの状態がどうであろうと、イエスは常にわたしたちに寄り添っていて下さる。これもまた【復活体験】に他なりません。
25年前、わたしは叙階したてで長野県の松本教会にいました。松本の教会には幼稚園が併設されていて、わたしがいた当時はその幼稚園の卒園生を対象に、土曜学校を行っていました。毎回何か子供たちに話すのですが、ちょうど今頃、復活節に「キリストの復活」についてこんなふうに話しました。「『キリストの復活』っていうのは、ようするにイエス様がわたしたちといつも一緒にいて下さる、ということだよ。わたしたちがどこにいても、どんなことをしていても。」すると、目の前にいた男の子が大きな声で言いました。「山辺にもいるだ?」(「山辺」とは松本の東側の丘の里で、たぶんその子が住んでいたんでしょう)わたしはすかさず「もちろん!」と答えました。その時子供たちが見せた、何とも不思議そうな、でもちょっと目がキラキラした表情を今でも忘れることができません。逆にわたしはそこで〈ああ、イエス様が共にいて下さるってこういうことか〉と、自分で言っておいて、勝手に自分で納得しちゃいました。いつもお話しするように、わたしにとっては神さまにいつも呼ばれている、ということが「キリストがいつも共にいて下さる」しるしだと感じるのですが。
復活節も終わりに近づきました。【共にいて下さる】キリストに信頼して、わたしたちも共に歩みたいと思います。