主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 年間第17主日A年(2017.7.30)

[マタイ13:44〜52]



 

 今日の箇所もマタイだけが記しているところです。マタイは「天の国」と表現しますが、もとは「神の国」、直訳だと“神の支配”という意味の言葉だそうです。つまりは神さまのなさること、はたらき、わざのことです。「神のはたらきは次のようにたとえられる」と言い換えると、わかりやすいかもしれません。

 まずは「畑に隠された宝」。昔は日本でもそうだったでしょうが、大切な物は壺に入れて土に埋めていました。そしてイエスの時代、今のように農地がはっきりと定められていたわけではなく、また農繁期も非常に短かったことから、とりあえず耕したところから「宝」が出てくる、なんてことは現代のわたしたちが想像するよりもはるかに頻繁にあったようです。ここで畑に宝を発見する人は貧しい小作農、「持ち物をすっかり売り払って」とは生き方そのものが変わってしまうことを表しています。

 次に「真珠を探す商人」。今と違って真珠は偶然できる物でしたから、あらゆる宝石の中で最も高価な物でした。それを扱う商人ですから、こっちは間違いなく金持ち。そして最初から良い真珠を「探して」います。しかしだからといってこの商人自身が海に潜って真珠貝を採るわけではなく、それを見つけるのは畑で宝を発見する人と同じようにまったく偶然、つまり受け身的です。そして彼も「持ち物をすっかり売り払って」それを買う。

 ようするに、貧しかろうと金持ちだろうと、求めていようがいまいが、神さまのわざはすべての人にはたらいている、そしてそのことに気付く時、あるいはそれを積極的に求めようとする時、わたしたちは【生き方そのものが変わる】というわけです。ではその【神さまのわざのはたらき】にどうやって気付くか。いつも思うことですが、一つの方法はすべての主語を「神さま」にすることだと思います。わたしたちは自己意識を持って生きていますから、普段は「わたし」が主語で生きています。わたしが求めている、わたしが判断する、わたしが頑張る‥といったように。でもそれを「神さまが」に変える時、実はそこに神さまのはたらきがあることに気付かされるのではないでしょうか。

 何度もしている話ですが、わたしは司祭になる前、自分の司祭召命に全く自信が持てませんでした。それもそのはず、それまでの人生は「自分が選んできた」「自分の力でやってきた」と思い、そんな「自分は何を求めているのか」「自分は何になりたいのか」という方向でしか見ていなかったからです。いくら考えてもその答えが見えてこなかったので、「神さま、もう勘弁して下さいよ。あなたの好きにして下さい」と祈ったら、あ、それか‥と気付きました。神さまはわたしに何を求めておられるんだろう、神さまはわたしの中で何をなさってこられたんだろう‥と視点を変えたら、まさにすべてが変わりました。そして割とあっという間に答えが見えました。「どうやら神さまは、このわたしを司祭にさせたがっているらしい」。もうそれで充分でした。〈呼ばれていた〉ことに気付いたのです。

 第二朗読でパウロは「召された」「召し出し」という言葉を三回使っています。これはもとのギリシャ語で「クレートス」、“呼ばれる”という意味です。そして何度も言うことですが、「教会」と訳された言葉はその「クレートス」の派生語で「エクレジア」、“呼ばれた者の集まり”。キリストの共同体の土台、もっと言えばキリスト教信仰の土台がこの“呼ばれている”ということだと感じます。ただわたしたちは普段気付いていない‥というか意識していないかもしれません。人間的には「わたしが洗礼を望んだ」「わたしが勇気を振り絞って教会に来た」のですから。でも、主語を「神さまが」に変える時、そんな人間の意識をはるかに超えた「神さまのはたらき(“呼びかけ”)」に気付くことができるはずです。そして、神さまの“呼びかけ”は決して一回限りではなく、常にわたしたちは神さまに呼ばれ続けているのです。

 そんな神さまからの“呼びかけ”にいつも心を向け直し、そして応えてゆくことができるように、共に願いたいと思います。

                                    鈴木 真

                               


マタイ 13:44〜52

(そのとき、イエスは人々に言われた。)「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。


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