イエスが『湖の上を歩く』というこの話は、マルコ福音書とヨハネ福音書にも出てきます。この何とも不思議なエピソードは、多くの聖書学者によればもとは[復活顕現物語]、つまり復活されたキリストと弟子たちが出会うという場面の話の資料に基づくのではないかと言われています。それならば多少納得できますし、弟子たちが「幽霊だ」と「おそれる」という表現も、復活の場面にも出てくるものだと気づかされます。
ただ、マタイ福音書だけが記している部分があります。ペトロがイエスに「主よ、あなたでしたら‥わたしも行かせてください」と言ってなんとペトロまで水の上を歩きはじめる。しかし「強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけ」てしまう。そんなペトロをイエスは助けて言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」‥ここで「疑う」と訳された〈ディスタゾー〉というギリシャ語は、“心が二つの方向に向かってしまい分裂する”という意味の言葉だそうです。ペトロはイエスの方だけを向いていれば「水の上を歩けた」のに、つい足元が気になってもう一つの方向に心が向いた結果、おぼれかけてしまう。
福音書の中でこの言葉はもう1箇所にだけ使われているそうです。マタイ28:17、まさに復活したイエスと弟子たちとが出会う場面。ここでマタイは、弟子たちが「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と書いています。この「疑う」も〈ディスタゾー〉です。この日本語訳だと弟子たちの中で一部「疑う者がいた」ような印象を受けてしまいますが、「ひれ伏す」という言葉が“真の礼拝を捧げる”(つまりひれ伏している対象が誰であるのかをわかっていることを示す行為)という意味の言葉であることを考えるなら、弟子たち全員が「ひれ伏し」つつも〈ディスタゾー〉の状態に置かれている、と読むべきでしょう。つまり、復活のキリストを目の当たりにしていながらも、まだ従い切れない弱さを抱えている。でもそんな弟子たちを、イエスは丸ごと宣教へと派遣されたわけです。
わたしたちも同じなんだろうと思います。神さまから“呼ばれていることを感じる時、それに応えて、すべてを神さまに委ねて歩みたいと願う。しかし時々、それこそ自分の足元や身の回りの出来事が自分の予想外だったりする時、不安になって心がそっちに向かってしまい、最悪ペトロのように「沈みかけ」てしまう‥でもそんなとき、やはり同じようにイエスはわたしたちに「すぐに手を伸ばして捕まえ」て下さり、そして言われるんでしょう。「信仰の薄い者よ、なぜ疑うか」と。
いつも、そしてずっと、わたしたちを“呼び続けて”くださっている神さまに、常に心を向け直して歩みたいと思います。