主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 年間第19日A年(2017.8.13)

[マタイ14:22〜33]

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8月13日年間第19主日、主任司祭がお留守のため、百合丘共同体は「ミサのない主日の集会祭儀」を行いました。
以下は、その際の主任司祭からの「すすめのことば」です。


 イエスが『湖の上を歩く』というこの話は、マルコ福音書とヨハネ福音書にも出てきます。この何とも不思議なエピソードは、多くの聖書学者によればもとは[復活顕現物語]、つまり復活されたキリストと弟子たちが出会うという場面の話の資料に基づくのではないかと言われています。それならば多少納得できますし、弟子たちが「幽霊だ」と「おそれる」という表現も、復活の場面にも出てくるものだと気づかされます。

 ただ、マタイ福音書だけが記している部分があります。ペトロがイエスに「主よ、あなたでしたら‥わたしも行かせてください」と言ってなんとペトロまで水の上を歩きはじめる。しかし「強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけ」てしまう。そんなペトロをイエスは助けて言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」‥ここで「疑う」と訳された〈ディスタゾー〉というギリシャ語は、“心が二つの方向に向かってしまい分裂する”という意味の言葉だそうです。ペトロはイエスの方だけを向いていれば「水の上を歩けた」のに、つい足元が気になってもう一つの方向に心が向いた結果、おぼれかけてしまう。

 福音書の中でこの言葉はもう1箇所にだけ使われているそうです。マタイ28:17、まさに復活したイエスと弟子たちとが出会う場面。ここでマタイは、弟子たちが「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と書いています。この「疑う」も〈ディスタゾー〉です。この日本語訳だと弟子たちの中で一部「疑う者がいた」ような印象を受けてしまいますが、「ひれ伏す」という言葉が“真の礼拝を捧げる”(つまりひれ伏している対象が誰であるのかをわかっていることを示す行為)という意味の言葉であることを考えるなら、弟子たち全員が「ひれ伏し」つつも〈ディスタゾー〉の状態に置かれている、と読むべきでしょう。つまり、復活のキリストを目の当たりにしていながらも、まだ従い切れない弱さを抱えている。でもそんな弟子たちを、イエスは丸ごと宣教へと派遣されたわけです。

 わたしたちも同じなんだろうと思います。神さまから“呼ばれていることを感じる時、それに応えて、すべてを神さまに委ねて歩みたいと願う。しかし時々、それこそ自分の足元や身の回りの出来事が自分の予想外だったりする時、不安になって心がそっちに向かってしまい、最悪ペトロのように「沈みかけ」てしまう‥でもそんなとき、やはり同じようにイエスはわたしたちに「すぐに手を伸ばして捕まえ」て下さり、そして言われるんでしょう。「信仰の薄い者よ、なぜ疑うか」と。

 いつも、そしてずっと、わたしたちを“呼び続けて”くださっている神さまに、常に心を向け直して歩みたいと思います。

 

 

                                    鈴木 真

                               


マタイ 14:22-33

 (人々がパンを食べて満腹した後、)イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


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