『ぶどう園の労働者のたとえ』‥多くの人からしばしばこの箇所について、「納得できない」「よくわからない」と言われてしまいます。確かに、人間の目から見たらまことに不公平、不平等、理不尽ですよね。でも神さまの目から見たらとても公平なんです。なぜなら、神さまの愛は無条件で無限だから。神さまのものさしが人間のそれといかに違うか。先週の箇所もそうでしたが、だからこそ、それをこの世の営みにたとえるととんでもないことになってしまいます。そして神さまの目は真っ先に、最も小さくされた人、立場の弱い人、いたみを負っている人に向かう。すなわち、夕方まで仕事がなかった人のつらさ、悲しさへと向かうわけです。でもそうした神さまのものさしが人間的価値観とあまりにも違うので、それに触れた人は一様に戸惑います。例えば『百匹の羊のたとえ』。たいがいわたしたちは自分を99の側に置くでしょう。そして99はえてして文句を言います。「なんで勝手にいなくなっちゃったあいつだけ優先されるんだ」‥と。でも99は気付いていないんです。自分たちは安全な場所にいるということ、すなわち自分たちも大きな恵みを頂いている、ということに。放蕩息子の箇所でも、文句を言った兄に父親は言います。「子よ(愛するわが子よ、という愛に満ちた呼びかけ)」。きょうの箇所でも文句を言った労働者に主人は「友よ」と呼びかけますが、これは異常なことです。「わたしの大切な友よ」という呼びかけを、普通は雇った側はしないからです。つまり、「あなたもとっても愛されている」というしるしなのです。しかし、頂いている恵みを「自分の手柄だ」と思い込んでしまう時、そして「俺はこんなにやってる」という自負を持ってしまう時、その神の愛が見えなくなってしまう、ということでしょう。
きょうの箇所を読んでいて、あることを思い出しました。ある教会に赴任していた時のことです(どの教会だったかは忘れてしまいましたが‥)。その教会では、教会学校で毎年年度末に、皆勤賞と精勤賞を出していました。それについて、ある時あるお母さんからクレームが来ました。「うちは子供が自分で教会に行かれるほど近くない。できれば毎週連れて行きたいけど、仕事の都合でできない。そういう家庭は少なくないのでは?それに教会なのになんで皆勤賞を出すんですか?学校ならわかるけど、ここは教会でしょう?神さまは、たとえ一回だけでも教会に来た子に『よく来たね』って言って下さるんじゃないですか?」‥うーん、痛いとこをつくなと思いました。でも、これこそ神さまのものさしだよなぁって。そのお母さんはフィリピンの方でした。さすが、フィリピンはカトリック国だから、そうした福音の価値観が根付いてるんだな、と感心しました。そこで教会学校のリーダーたちとよく相談した結果、その年から皆勤賞・精勤賞はやめました。その代り、年度の終わりに一回でも来た子も含めて全員に、ごほうびにアメをあげることにしたんです。
神さまのものさしをわたしたち人間が実践することはそう簡単じゃありません。でもあの事を思い出す時、あながち不可能じゃないな、とも思うんです。しかしまずは何よりも、「神さまはそういうふうに愛して下さってる」ということを思い起こすことが大切なのでしょう。わたしたちは一人の例外もなく、神さまの大きすぎる愛に包まれている。そのことにいつも目を向けることができるよう、共に祈りましょう。