主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 待降節第三主日A年(12/17)

[ヨハネ1:6〜8, 19〜28]

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 毎年待降節の第二、第三主日には、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれることになっています。先々週の土曜日(12/9)のミサでも話しましたが、今年は「わたしはその履物のひもを解く資格もない」というヨハネの言葉が目に留まりました。実はこれ、四つの福音書すべてに出てくる言葉です。表現は微妙に違いますが。マタイは「履物をお脱がせする値打ちもない」、マルコとルカは「履物のひもを解く値打ちもない」、と。これ、よく考えたらすごいことを言ってるんだなぁと思います。『聖書と典礼』の注書きにもありますが、履物を脱がせるのは奴隷の仕事、つまりその方と比べたら自分は奴隷以下だ、というわけです。比較もできない、段違いの方が来られるんだ、と。洗礼者ヨハネという人は様々なイメージが持たれているんだと思いますが、わたしは勝手に結構プライドの高い人だったんじゃないかと思ってます。なんせ時の権力者であったヘロデ王に「あんたのやってることは律法違反だよ」とか言っちゃって牢に入れられ、果ては首切られちゃうわけですから。そのヨハネが、これだけのことを言ってること自体がすごい。そして、なぜヨハネはそこまでの確信があったのか。しかもこの時点でヨハネは、そのメシアがどんな存在なのかわかっていないわけです。ヨハネ福音書ではこの次の日にヨハネはイエスと出会うわけですが、そこでヨハネは「わたしはこの人を知らなかった」と二回言っています。ルカはイエスとヨハネを親戚だったと書きますが、イエスがその人だとはわかってなかったということでしょうか。現にマタイとルカでは、牢に入れられたヨハネが弟子を派遣して、イエスに「本当にあなたがメシア?」と聞かせてるくらいです。それくらい、ヨハネの持つメシアのイメージとイエスは違っていた。それでもヨハネは、その「知らない人」を「すごい人だ!!」と伝えるわけです。実はここにこそ、ヨハネの信仰があると思います。〈どんな方なのかわからない、しかしこれは間違いなく神のわざなのだから、だとすれば間違いなくとてつもない方が来るに違いない〉と信じ、人々に伝えた。これまたすごいことです。そして、わたしたちにも、同じ信仰が求められいてるのではないでしょうか。よく考えれば、神さまのわざとはえてして予想外、「え?」「なんで?」「今?!」ということが少なくありません。しかしそこに必ず神の救いのわざがあると信じる時、お告げを受けたマリアもそうだったように、それを丸ごと受け入れ、そこに100%自分を委ねてゆくことができるのでしょう。

今年も色々なことがありました。神さまではなく人間のわざも「なんで?」と思わずにいられないことも多い今日この頃ですが、共同回心式に当たって、わたしたち個人はもとより、日本という国が、そして世界の様々なところで、わたしたち人類が神から離れていたことを認め、ゆるしといやしを願いましょう。

 

                                    鈴木 真

                               


ヨハネ 1:6-8、19-28

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。

 『主の道をまっすぐにせよ』と。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


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