ヨハネ福音書の冒頭は「ロゴス讃歌」と言われ、ヨハネ福音書以前からあったものであると言われています。ヨハネ福音書ではそれを独自にアレンジして(『聖書と典礼』で《》に入れられている部分)編集されてますが、実に独特な表現でイエスがこの世に来られたことを記しています。
「ロゴス」とは「言(ことば)」と訳されたギリシャ語ですが、聖書の言葉(原語)に触れていつも気付かされることは、言わばすべて【神さま目線】である、ということです。「ロゴス」もここでは「神の言(ことば)」という意味で使われていて、先日説明した、ルカが好んで使う「レーマ」という言葉もまさに「神の言葉」。
この二つはちょっと概念としては違いますが。他方、日本語の「言」という字をを見てみると、上にある四本の線は「心」を横にしたものだそうで、下は「口」。つまり〈ことば〉とは心を口にするもの‥なのだそうです。なるほどそれはそれで深い意味がありますが、言ってみればこれは“人間目線”ですよね。別にだから違うとか劣っているということではなくて、文化の違いだと思うのですが、聖書では様々な言葉(概念)に「神の」とか「神が」という言わば条件が付けられていることに気付きます。
例えば「アガペ(愛)」。これも原型は「神の愛」です。神がどれだけわたしたちを無限に、無条件に愛しておられるか、それを表現したのが「アガペ」であるわけです。そしてだからこそ、聖書は「まず神さまが」と強調します。「人間が」ではなく。まず神さまが、先にわたしたちを愛して下さった。まず神さまが、わたしたちを呼び集めて下さった。いつも言うことですが、「教会」と訳された「エクレジア」は“呼ばれた者の集まり”という意味です。まず神さまが、〈わたし〉を選び、呼んで下さっている。「エクレジア」のもとにもなっている「クレートス(召される)」は、聖書の中で使われる時はほとんど「神からの召命」を表します。
主の降誕を祝うこの時、「まず神さまが」、イエスというお方をこの世に遣わして下さった、その大きな愛を、あらためて分かち合いたいと思います。