主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 年間第4主日B年(1/27)

[マルコ1:21〜28]

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 イエスが悪霊を追い出すシーンは福音書にいくつか出てきます。

悪霊(汚‥神に反する要素、あるいは人間を神から離してしまう力‥それが言わば擬人化されたものなのでしょうが、それ以上はよくわかりません。ただイエスが悪霊を追い出す場面には共通した要素があって、それは必ず悪霊の方からイエスに反応する、ということです。これは古代における悪霊追放物語のパターンでもあるそうですが、一つのポイントとして見るならば、〈福音が提示される時、それに反するもの、つまりこの世的な価値観があらわにされる〉と言えるかもしれません。

わたしたちは普段結構グレーにしている物事が多々ありますが、「いや、神の目から見たらそれは正しくない」ということがあらわされてしまう‥といったところでしょうか。そしてそれほどに、福音の価値観とこの世的なそれとは違う、ということなのでしょう。そして教会、あるいはキリスト者は、その二つのはざまで生きているとよく言われます。つまりこの世にあって、この世を超えている福音を生きようとする共同体である、と。だから難しい、とも言えますし、半面、それを可能にして下さるのも神さまなので、ある意味わたしたちはこの世にあってこの世を超えちゃってる部分も沢山あるのではとも思います。

その一つが、「教会共同体とは増えこそすれ決して減らないもの」であるということです。わたしたちはこの世を去った後も、つながり続けている。よく言うことですが、「教会(エクレジア“呼ばれた者の集まり”)」‥その一員であるわたしたちは、この世を去った後でも、“呼ばれた者”であり続けるわけです。これはもう、この世にあってこの世を超えちゃってますよね。

この前の日曜日(1/21)、鍛冶ヶ谷教会に呼ばれて行って来ました。横浜市栄区、根岸線の本郷台駅の近くにある教会で、30年前わたしが神学生だった時、2年間にわたって土日の手伝いに伺った教会です。当時は中高生や青年が沢山いて、わたしも若かったですし、仲間も沢山できて本当に楽しい2年間でした。26年前に初ミサで伺って以来、ずっと行く機会がなかったんですが、わたしが司祭になってからずっと、当時高校生や青年だった仲間が毎年1~2回飲み会を企画してくれました。若い時の仲間と集まるのは本当に楽しくて、楽しすぎて毎回飲み過ぎちゃうんですが‥昨年その仲間たちがわたしの銀祝をお祝いしてくれた時「マコトさん、たまには鍛冶ヶ谷でミサして下さいよ」と言われたのがきっかけでした。いや〜本当に嬉しかったし楽しかったですね。26年ぶりにお会いする方も沢山いらして、嬉しい再会の時を頂きました。

またわたしが久しぶりに行くというのでミサ後に中高生を集めて下さって、20人ほどいたでしょうか。自己紹介をしてもらったら、毎年一緒に飲む仲間の子供たちだったりして‥なんだこれは!と思いました。こんな共同体ほかにはないぞ!と。時と場所を超えてつながり続けてる、まさにこの世を超えちゃってるなぁ‥などと強く感じた日曜日でありました。

無論先ほど言ったように、この世にあってこの世を超えている価値観を生きるのはそう簡単ではありません。教会であっても、この世の価値観で動いている部分は多々ありますし‥。でも、やはり一番大切なところは神さまが可能にして下さる、それもまた「教会」という共同体の特徴かもしれません。わたしたちがこの世を超えた共同体であり続けていることに、いつも気付かせて頂きたいと思います。

            カトリック百合ヶ丘教会主任司祭  鈴木 真

                               


マルコ 1:21-28

イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコによる福音書 1:21-28)


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