主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 四旬節第2主日B年(2/25)

[マルコ9:2〜10]

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 【主の変容】‥「イエスの姿が変わる」という不思議な箇所です。多くの聖書学者の指摘によると、この記事はもともとは復活顕現物語、つまり復活されたイエスに弟子たちが出会うという内容の資料だったのではないかと言われています。たとえば「服は真っ白に輝き(3)」「現れて(4,7)」などの単語は復活の物語に特有のものだそうで、マルコはイエスがどなたであるか、そしてどのようなメシアであるかを強調するために、第一と第二の受難予告の間に、この記事を入れて編集した‥ということです。まぁそれならば‥と納得できますね。

ただ、この箇所には重要なポイントがあるのも確かです。「高い山に登られた(2)」‥「山」は神と出会う場所です。たとえば第一朗読や、出エジプトでモーセがシナイ山で十戒を授かったことなど。“非日常の場所”と言われます。日常から非日常の場へ、そして再び日常に戻る(山を下りる)。これは宗教体験のパターンだとよく言われます。

たとえばミサ。ミサはわたしたちにとって“非日常の場”で、そこでわたしたちは何かをもらって新たにされ、また日常へと「派遣」されていく。半ば無意識のうちに、それまでとは違う自分にされているんですね。また、「合宿」も似た体験であると言われます。日常とは違うメンバーが寝食を共にして過ごす中で、何かが与えられる。そして再び日常へと戻るわけです。だから合宿をやるんだとも言えるでしょう。ちなみにわたしは、年間7回の合宿を毎年こなしてます。ほとんどは青少年関係ですが、これでも減った方で、若い頃はほぼ毎月何らかの合宿をしてました。そんなわたしは、確かに合宿って非日常の場で、貴重な体験を毎回してるなぁ‥と実感します。青年たちの合宿では必ず最後にミサで締めくくるんですが、そこで毎回長くなるのが「平和の挨拶」。自分の席を動いて自由に誰とでも「平和の挨拶」をするんですが、これがきりがない。「平和の交流」になっちゃうんですね。最近では「じゃあ三分だぞ」と言って、三分経ったら「終わりー!!」と叫ぶんですけど、それでもなかなかやめない。でも確かに、あの時間のあそこでしか言えないこと、伝えられないことがあるんですね。やはり、“非日常”の、特別な体験の場になっているんだと思います。

“非日常”の場の体験によって、わたしたちは常に変えられ、新たにされ続ける。そんなミサや合宿などの場が与えられていることに、あらためて感謝したいと思います。

            カトリック百合ヶ丘教会主任司祭  鈴木 真

                               


マルコ 9:2〜10

(そのとき、)六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(マルコによる福音書 9:2-10)


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