『金持ちとラザロ』というタイトルの箇所です。このたとえはルかにしか出てきませんが、ラザロという名前はヨハネ福音書ではマルタとマリアの兄弟、イエスによって生きかえった人のものとして出てきます。「聖書と典礼」の注書きにもありますが、この「ラザロ」という名前はヘブライ語読みで〈エレアザル〉、“神は助けたもう”という意味だそうで、この名前そのものにたとえのヒントがあるとも言えます。ただわたしたちはこれをよくある因果応報的な話、つまり善人は天国に行って悪人は地獄へ‥と捉えがちですが、実は全く違います。金持ちの方は当てはまるにしても、ラザロの人格は何ら問題にされていない。「ラザロは貧しいけどいい人だった」とは書いてないのです。神の愛は無条件で無限なもの、中でもまず神が真っ先に目を向けられるのは貧しい人、小さくされた人、いたみを負う人、弱い立場に置かれた人。問題は金持ちがラザロの存在を知っていたにもかかわらず、目を向けようとしなかったことです。前述のような神の視点に立とうとしなければ、自分も神に愛されていることも忘れ、神から離れてしまい、取り返しのつかないことになる‥という警告なのです。「門」という言葉が出てくるのも偶然ではありません。聖書で「門」は家の内と外を分ける境界線であり、すぐ「外」にラザロがいたのに「内」にしか目を向けなかった金持ちの姿勢が問題にされています。
「内」と「外」といえば、教会共同体にもこの2つの面があると思われます。何かの折に話すことですが、「教会」と訳されたギリシャ語は〈エクレジア〉、“呼ばれた者の集まり”という意味です。教会はできたその時から、これは自分たちが勝手に集まっているのではなく、神によって呼び集められたものなのだという意識を持ちました。ただ、それだけでは意識は「内」に向いたままです。他方、使徒言行録が聖霊降臨をもって教会の誕生と位置付けたように、呼ばれたわたしたちは常に「外」へと派遣されています。だからこそ、ミサのたびにわたしたちは派遣の祝福を受けて、「さあ、自分たちの生きる場でキリストを証して下さい」と言われてるわけです。
ところで‥9/20の朝日新聞一面の『折々のことば』という欄に、こんな言葉が載っていました。「『民主主義には二度万歳をしよう。一度目は、多様性を許すからであり、二度目は批判を許すからである。ただし、二度で充分。E.M.フォースター』‥多数決という手続きから独裁政治が生まれることもあり、『三度も喝采する必要はない』と英国の作家は言う。陰湿な圧力がかかれば人々は『自粛』に向かう。権力にへつらう声は増幅される。少数の意見や立場を擁護するには、制度としての民主主義を凌ぐほどにしたたかな心得と工夫が要る。」‥なるほど、と思いました。いつも思うことですが、民主主義はいいものだけど、人間の「ものさし」としての限界を持っている。それが「多数決」という原則です。一方、神の「ものさし」はそれをはるかに超えて、一つひとつを大切にする。毎年成人式を迎える若者たちに、「選挙に必ず行って下さい」とお願いしてきました。それは民主主義云々でなく、日本には税金だけ払わされて選挙権を持たない人が沢山いる、あるいは選挙権があっても投票所に行かれない人がいっぱいいる、わたしたちはその人たちの分まで投票する必要がある、と思うからです。「人の分まで」という視点が、「外」に目を向ける第一歩になり得ます。ただ‥今年から選挙権が18歳に引き下げられたので‥どこで言いましょうかね。
まずは自分とは立場の違う人に目を向けること、それが「外」への視点につながるのでしょう。心を自分の外側、つまり神と人へといつも向け直すことができるよう、聖霊の助けを願いたいと思います。
鈴木 真
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