「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」‥聖書が「へりくだり」「謙遜」と言う時、そこには特別な意味が込められます。第一朗読でも出てくる「柔和」、これも実は同じ言葉の訳語です。イエス御自身も「わたしは柔和で謙遜」と言われますが、日本語では「柔和」と「謙遜」を同じ意味として解釈するにはちょっと違和感がありますよね。聖書の言う「へりくだり」には日本語で表現し切れない意味が含まれています。さらにこの言葉、あるところでは「小さい」とか「貧しい」とも訳されます。そこには経済的な貧しさも含まれています。
語源をたどってみると、もともとは人間が身をかがめて低くする姿勢、つまり頭を下げている姿勢を表す言葉に行きつきます。そしてこれは“神の前におかれた人間のとる姿勢”、神に心を向けている人間の状態を表す言葉なのです。そこから「真の礼拝を捧げる」という意味にもつながっていきます。
要するに、〈対人間〉ではないということですね。日本語で「謙遜」と言うと誰かほかの人間と自分を見比べて、本当は自分は70くらいの位置にいたとしても「いやいや、わたしは40くらいでございます」というような、そんなイメージがあって、これはまさに〈対人間〉ですよね。でも聖書の言う「謙遜」「へりくだり」は〈対神さま〉なんです。神に心を向ける人は皆、自分の小ささを知る。同時にその神が小さい自分をどれだけ愛されているかに気付く‥それが聖書の言う「謙遜」「へりくだり」であるわけです。『神が』がすべての出発点、わたしたちの信仰の土台であると言えるでしょう。
「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすればあなたは幸いだ」‥津久井やまゆり園で起きてはならない悲しい事件があってからひと月が経ちました。でもあの事件があって改めて、各メディアは一斉に「優生思想」‥〈すぐれたものにこそ価値がある〉という考え方‥に反論の記事を載せています。つまり、いのちは存在しているだけで尊いのだ、と。それはとてもいいことだし、改めて社会に対してそれを発信すべきだし、同時にわたしたちも改めて反省すべきでしょう。自分もどこかで「あいつは使える」とか「仕事できるヤツだ」といった、能力で価値をはかろうとしていないだろうか、と。ただわたしたち信仰者の強みは、いのちは存在しているだけで尊い、その先の「なぜならば」を持っていることです。
なぜならば、一つひとつのいのちを造られた神御自身が、そのいのちをこよなく愛されているのだから、と。だから、いのちは存在しているだけで尊い。前にも話しましたが、ラジオの番組である人が言っていた言葉が頭に残っています。「生きてるだけで100点満点。」いい言葉だなと思います。『神が』という土台にいつも立ち帰りたい、立ち帰ることができるよう、共に祈りたいと思います。
鈴木 真
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