21. 神を恨みたいときに
昨年の五月頃、一人の卒業生から手紙を受け取りました。
三月に卒業してからーカ月半、その手紙は、交通事故による母親の突然の死を告げるものでした。
熱心なキリスト教徒であった母親は、その日も障害者施設建設のためのバザーの用意のために
教会の人々とともに車に乗っていたそうです。
ところが、その車が19歳になる少年の運転する車に追突され、
母親はたまたま後部座席の真中に坐っていたために、
弾みで飛び出してフロントガラスに頭を打ちつけて、
ほとんど即死の状態だったというのです。
自分自身も生まれつきのカトリック信者であるその卒業生は、
「どうして、私が母を必要としている今、しかも、神さまのご用をしている最中に
母は死なねばならなかったのでしょうか」と問いかけ、
自分が生まれてからこの方、主と仰いできた神を「恨みたい気持ちです」と書いていました。
父を不慮の死で失った経験を持つ私がその人に書いた返事は、
「神さまをお恨みしたければ、存分に恨み言を言ったらいいのですよ。
心にもないきれいごとを並べたてるより、本心を神にお打ちあけなさい。
いつか、あなたに、お母さまの死の意味がわかる時がくるよう祈っています」ということだけでした。
時として私たちは、「神も仏もあるものか」という気になります。
正直者が損をして、ずるい人が甘い汁を吸っている。
「神さま、あなたの目は節穴ではありませんか……」と言いたくなる時があるものです。
「これだけ一生懸命働いているのに」とぐちの一つも言いたくなる時がありますが、
そんな時に、キリストの十字架上の姿が浮かぶのです。
自分自身は罪もないのに、他人のために、呟くこともなく十字架についたキリストは、
時に理不尽な苦しみに必ず遭う私たちに、
その苦しみかたと、その苦しみが決してムダでないことを、復活という事実で教えてくださいました。